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説教
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礼拝メッセージより
説教題:「忘れない」 2002年11月17日
聖書:イザヤ書 49章14-21節
忘れ物
最近忘れ物が多い。最近じゃないか。特に人の名前をなかなか覚えられない。これは最近かも。
初めて教会に行ってから2回目に行くまでに2ヶ月位間があった。久しぶりに2回目の礼拝に行ったときに玄関を入るとすぐに、浅海君よく来たね、と言われた。びっくりした。名前まで覚えているとは思ってもいなかった。そしてうれしかった。
覚えられているということはとっても嬉しいことだ。関心を持ってくれていることは嬉しいことだ。心配してくれる人がいるということは嬉しい事だ。だから是非皆さん、教会に来た人の顔を覚えてください。
母の胎
まるで神からすっかり見捨てられてしまったかのようなイスラエル。国はなくなり多くの人は外国で生活しなければならなくなってしまった。
49:14 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。
シオンとはエルサレムにある丘の名前で、イスラエルのことを度々シオンという言い方をする。そのシオンが、主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と嘆いていると言う。40年間も自分たちの国がないままに、自分たちの故郷に帰ることもできないままに過ごすなんてことはあってはならない耐えられないようなことだったのだろう。こんなはずではなかった、私たちはこんなところでこんな生活をするはずではない、という思いがあったのだろう。それなのにまるで希望もない、変化の兆しもないとなると絶望するしかなくなる。神はどうして自分たちのことをよくしてくれないのか、自分たちを救ってくれないのか、そんな思いが起こる。そしてそれが続くとやがて、神は私たちを見捨てた、もうすっかり忘れてしまった、そんな風に思っても不思議ではない。
ところが神はあなたを見捨てることはないという。見捨てるどころか、母の胎の中にいるときからずっとあなたを見ているというのだ。
幼稚園の誕生会の時には「生まれる前から神さまに、守られてきた○○君の誕生日です、おめでとう」という歌を歌っていたが、まさにその歌の通りであるというのだ。生まれる前からずっと知っていた。ずっと見てきたというのだ。
人にとってなんとも苦しく辛いことはひとりぼっちであることだろう。誰からも見向きもされない、誰とも話せない、誰からも愛されない、誰からも関心を払われないというのはどんなに辛いことだろうか。いちいち何かにつけて干渉されるのも困ったものではあるが、まったく関心を持たれることもない、独りぼっちというのは非常につらいものがある。孤独にはどんな人も耐えられないのではないかと思う。すぐ近くに人が大勢いたとしても、誰も自分を見てくれないとしたら、誰も自分の言うことを聞いてくれないとしたら、誰も自分のことを分かってくれないとしたら、人はどんなにさびしく辛いだろうか。そんな孤独に耐えれるひとはいるのだろうか。
神さまは、母親が自分の子どもを忘れることがないように、憐れむことがないように、あなたを忘れることはないという。人間は自分の子どものことを放っておくこともないわけではない、しかし神は何があろうともあなたを忘れることはないというのだ。
そしてあなたをてのひらに刻みつけるというのだ。手のひらに刻みつけるとはどういうことなのだろうか。名前を入れ墨のように入れるようなことなのだろうか。それともあなたを手のひらに刻みつける、というのだから名前ではなくて人をそのまま神の手のひらにくっつけるということかもしれない。神の手の中から離れることのないようにするということかもしれない。
そしてイスラエルの民は自分たちの土地へ集められるという。もういなくなってしまっていたと思っていた大勢の人たちがまた自分たちの土地へ集められるという。
この時はペルシャの王によってバビロンから自分たちの所へ帰るようにという命令が出ていたころだそうだ。実際にはもうことは動き出していた。新しい時代が少しずつ見えてきていた時だった。けれどもイスラエルの人たちは、自分たちは神に見捨てられてしまったのだ、という思いに捕らわれてしまっている。もう自分たちは神に捨てられた、もうダメなのだ、もうどうにもならないのだ、もう未来はない、希望はない、そう思い込んでいたようだ。だから少々何が起こっても、自分たちの国へ帰るようにという帰還命令が出てもそこに希望を見いだす事ができなかったようだ。
希望
そんな希望を持てない者たちに第二イザヤと呼ばれる預言者は語る。
49:21 あなたは心に言うであろう/誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか/わたしは子を失い、もはや子を産めない身で/捕らえられ、追放された者なのに/誰がこれらの子を育ててくれたのか/見よ、わたしはただひとり残されていたのに/この子らはどこにいたのか、と。
子どもを産むこともできない私のために誰がこれらの子を与えてくれたのか、誰が育ててくれたのか、この子らはどこにいたのか、とあなたが喜ぶようになるという。思いもしなかった、想像もできなかったほどの喜びがあなたを待っている。神はあなたのためにそんなプレゼントを用意して待っているのだ、という。
神に見捨てられてしまった、忘れられてしまったと思っている、もう未来はない、もう希望はないと思っているイスラエルの人たちに、第二イザヤは、あなたたちは忘れられてはいない、ずっと忘れられてはいなかった、今もしっかりと神の手の中にある、そして想像もできないような、思いもよらないような祝福を与えようとしている、というのだ。
私たちの現実も厳しい。いろんな大変な事の中に生きている。病気することもある。いろんな失敗をすることもある。思いようにいかないことが、願ったとおりにならないことがいっぱいある。自分の願い通りになること、祈ったとおりになることを私たちは望むけれどもなかなかそうはいかない。そうすると私たちもイスラエル人たちのように嘆く。どうしてこんなことになるのか、どうして神は私たちの祈りをかなえてくれないのか、どうして私ばかりがこんなに苦しむのか、神は私たちを見捨てたのか、神は私を忘れてしまったのか。
こんな詩がある。
強くしてくださいと神に祈りました。
強くなるようにと私に困難を神はくださいました。
知恵をくださいと神に祈りました。
解くようにと私に問題を神はくださいました。
富をくださいと神に祈りました。
頭脳とたくましい筋力を神は私にくださいました。
勇気をくださいと神に祈りました。
克服するようにと私に危機を神はくださいました。
愛をくださいと神に祈りました。
助けるようにと私に思い悩む人を神は引き合わせてくださいました。
恩恵を施してくださいと神に祈りました。
チャンスを神は私にくださいました。
私が欲しかったものは何一つ与えられませんでした。
しかし私が必要とするものはすべて与えられます。
きっと私たちの神はそんな神だ。私たちの神は私たちが求めたものをそのままくれるような神ではない。病気を治してくれと祈ったらすぐに治し、お金をくれと祈ったらすぐにくれて、苦しみをとってくれと祈ったらすぐにとってくれるような神ではない。私たちの欲しいものを全部与えてくれるような神ではない、けれども私たちの必要なものは全部与えてくれる神だ。それはさっきの詩にあるように、困難であり問題であり頭脳とたくましい筋力であり、機器であり、思い悩む人であり、チャンスなのかもしれない。私たちはそんなもの欲しくないと思う。困難や問題から遠ざけてくれと望む。面倒な人には会わせないで欲しいと思う。面倒な人間が礼拝に来るとうっとうしく思ってしまう。けれども神は私たちに必要なものはすべて与えられているのだ。私たちが邪魔だと思うこと、それらもみんな本当は私たちに必要な物なのかもしれない。必要だから私たちに与えられているのかもしれないのだ。きっとそうなのだろう。私たちは自分が欲しいものが与えられないからといって嘆く。嘆く材料には事欠かない。年取った、身体動かなくなったから、献金が減った、礼拝の人数が減ったなどなど。そうなることは神に見捨てられ忘れられたかのような、そんな気になってしまう。けれども本当にそうなのだろうか。
私たちがどんなに失望するような時でも、嘆くしかないような時でも、神は決して忘れてはいないのだ。忘れはしないのだ。本当はそれもこれもすべて私たちに必要なもの、私たちに必要なことなのかもしれない。必要だから与えられていることなのだと思う。