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礼拝メッセージより
説教題:「とこしえの言葉」 2002年11月3日
聖書:イザヤ書 40章1-11節
第二イザヤ
イザヤの精神を受け継ぐ無名の預言者が登場。イザヤ書の40章から55章は彼の預言と考えられているそうだ。
時
紀元前550年頃。バビロンに補囚されてから40年がたった頃。40年間異国の地で過ごすことになった。特に奴隷の生活をしていたわけではなかったようだが、40年もたてばすっかりそこでの生活に染まってしまうようなことになっていたのではないかと思う。自分たちがことさらユダヤ人であるということも意識しないような、できないような時間を過ごしていたのだろう。バビロンにはマルドゥクという神があって、その神を拝むような行事を目にすることも多かったことだろう。ただただ時の権力に支配されて流されていくしかない、無気力な時を過ごしていたのではないかと思う。今の状態がいつまで続くのかも分からない、けれどもバビロンに反抗する力もない、エルサレムに帰る力もない、そんな希望も持てない、自分たちが何かをしようとしたとしてもどうせ何もできないというような無力感を持っていたのではないかと思う。自分たちの力ではどうにも今の現状をうち破る力も元気もないようなそんな時代だったようだ。
慰めよ
ところがそんな時代にひとりの預言者が立てられる。そして神の言葉を取り次ぐ。私の民を慰めよ、苦役の時はもう終わる、咎は償われ、罪は倍する報いを受けた、というのだ。罪の倍の報いを主の報いを受けた、と言っている。実際にはまだまだ苦しい中にいる。希望のない中にいる。けれどももうすでに報いを受けた、主の見てから報いを受けている、預かっているということのようだ。そしてその報いはもうすぐあなた達の元へと届けられるということのようだ。苦しみの時はやがて終わり、新しい時が時代がやってくるのだという。
草
けれども人はなかなかその神の言葉を受け入れることもできない。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。 40:7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。」
主の風に吹き付けられたから枯れてしまい、しぼんでしまったのだ、と言うのだ。どうせ私はダメな人間です、何もできない人間ですと思う、罪深い人間です、どれもこれも私が悪かったからその罰なんですと思うことがある。そしてそんな思いに縛られてしまうことが案外多いのかもしれない。どうせ自分はないもできないと思うことで、自分にできることもできず、自分に語りかけてくれている言葉も聞けなくなってしまうことも多い。
けれども神は語りかける。
40:8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
神の言葉はとこしえに立つ、というのだ。確かに人間は弱く罪深い者だ。何かあるとすぐにしおれて枯れてしまう。けれども神の言葉はとこしえに立つ、というのだ。そしてその神が、
40:10 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む。 40:11 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
というのだ。
12節以下では神の大きさが書かれている。神が世界を創った、神が全てを支配しておられるということが書かれている。それなのにどうしてお前達は神を小さなものに思ってしまうのか、無力なもののように考えるのか、ということなのだろう。神は全世界のあらゆるものを支配している、どこかの地方の片隅にいるわけではない。私たちのことを放っておいて、たまに助けにくるというわけではない。いつもいつも私たちのことを支えてくれている。私たちがそう思わなくても、気づかなくても、いつも見守り支えておられるというのだ。
勿論目に見える現実は厳しいものだった。一体どこに神がいるのか、神は見放したのかと思うようなことが続いていた。40年間補囚され、それ以前から苦しいことの連続である。神はどこにいったのかと思うような現実が続いていた。
けれども神は決してどこかにいっていたわけでも、知らん顔をしていたわけではない。神はいつもどんな時も世界の全てを支えているのだ。神はそういっているようだ。羊飼いが小羊を守るように、小羊が気づいている時も気づいていない時も神は私たちをしっかりと支えてくれているのだ。そのことをこの預言者は語りかけた。神はしっかりと支えてくれている、だから希望を持って生きよう、神に支えられていることを知って生き生きと生きようという。
希望
まるでただ死を待つだけの老人といった感じだったユダヤ人に預言者は語りかけた。日野原重明という医者の本の中に「他人のために役に立てたということは、つまり自分という存在が生かされたということであり、生きている実感をこれほど強く感じられる瞬間はありません。心の健康のためには、自分の能力を他人のために存分に使うことが一番なのです」と書いているそうだ。と『世の光』に載っていた。
森毅という元京大の教授は「老人のただ一つの大事な役目は、年を取ることのすばらしさを若者に伝えることだ」というようなことをテレビで言っていた。
この時バビロンで生きていたユダヤ人たちはそんな役目も喜びも希望もなくしていたようだ。負けてしまった、国がなくなってしまった、もうどうしようもない、もう何もできない、何の希望もない、ということだったようだ。
私たちの現実も似たようなところがあるのかもしれない。年をとって、身体も弱くなった、だからあれもこれも出来ないと言う声をよく聞く。確かにできなくなったことはいっぱいあるだろう。けれどもできないことばかり、ないものばかりを見つめていては希望も何もなくなる。
私たちの希望はどこにあるのか。自分が何かすごいことができるから希望があるのか。人に自慢できることができて初めて希望を持てるのか。もしそうならだんだん弱くなることで希望はどんどんなくなる。
40:8 草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
私たちの希望が神の言葉にあるならば、私たちはとこしえに立つことができる。神が私たちの全てを支えてくれていることを知ることで、私たちは命の限り希望を持って生きることができる。