前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「平和を告げる者」 2002年11月24日
聖書:イザヤ書 52章1-12節
奮い立て
バビロンからまたイスラエルの地に帰ってもよいという許可が出た。そのことについて預言者が民に語りかける。奮い立て、喜びの声をあげよ、と。9節には、歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ、と言われている。また自分たちの土地へ帰ることができるという希望は出てきたかもしれない、しかし現実のエルサレムは以前として廃墟なのだ。まだ自分たちの町は復興されたわけではない。ユダヤの民がバビロンに移されてから50年余りとなったていた。すっかりそこの土地の生活になじんできていた者も多かったのだろう。バビロンで豊かな生活をしていた者たちもいたそうだ。自分たちがユダヤ人であるという意識もすっかり薄れてしまっていたのかもしれない。神の存在も、神を礼拝する気持ちもすっかり薄れてしまっていたのかもしれない。神がどうかしてくれるという希望もなくなりあきらめの気持ちになっていたのかもしれない。
大国の力に翻弄されているというのが目に見える現実のユダヤの姿である。バビロニアという国によって補囚され、今度はペルシャという国がそのバビロニアを滅ぼし、そのペルシャの王の命令によって元の土地へ帰ることになったわけだ。自分たちの国は大国の前には無力であった、そしてその大国の力に対抗することもできずにもてあそばれている、それが目に見える実際の出来事だった。またもとのカナンへ帰ることができるようにはなった。しかしただどこかの国の思惑だけでそうなったというのであれば余り喜ぶこともできない。やがてまたいつ他の国に翻弄されてしまうかもしれないわけだ。
しかし預言者はそんなユダヤの民に語りかける。奮い立て、歓声を上げ、共に喜び歌え、と言うのだ。神が王となった、神が王である国ができた、あなたたちはそんな国へと帰っていくのだというわけだ。現実に起こっている出来事、目に見える出来事はただ大国の思惑で動かされているだけのようにも見える。しかし実はそうではなく、目に見えない根本的な事柄、それは神がユダヤを再建し、神が王となったということなのだというわけだ。そんな神の出来事が起こっている、だから奮い立て、喜び歌え、というのだ。
そして奮い立て、という言葉は民が神に向かって発していた言葉であった。51:9-11には「奮い立て、奮い立て 力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに 遠い昔の日々のように ラハブを切り裂き、竜を貫いたのはあなたではなかったか。海を、大いなる淵の水を、干上がらせ深い海の底に道を開いて贖われた人々を通らせたのはあなたではなかった。主に贖われた人々は帰ってきて喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る」とある。神に向かってどうか奮い立ってくれ、どうにかしてくれ、昔のように自分たちを救ってくれ、という祈りがあった。それに対する答えのような、「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。」ということを神はいわれる。神さまどうかしてくれ、あなたが頑張って私たちを救ってくれ、という民に対して、今度はお前達が奮い立つのだといわれているようだ。神のことを忘れかけている、信じられなくなってきている民に対して、私を信じなさい、私はあなた達を忘れはしない、あなた達を救うのだ、だからあなた達も奮い立ちなさいといわれているようだ。6節では「わたしの民はわたしの名を知るであろう」と言われている。すっかり忘れかけていた神を、信じられなくなりかけていた神をまた知るようになるというのだ。
見えないもの
私たちも目に見える事柄だけに目を奪われてしまいがちだ。苦しいこと、大変なこと、自分の願い通りにならないこと、いろんなことが起こる。神を信じていれば自分の願いは叶うのだ、というようなことをいう宗教もいっぱいある。真剣に祈れば病気も治る、金持ちにもなる、受験も受かる、事故にも遭わない、というようなことを聞くことも多い。時々新聞のチラシの中にもそんなのが入っている。これを信じたら病気が治った、商売がうまくいった、というようなことが書かれている。そして私たちもそんな思いを捨てきれない面もあるように思う。神が自分の願いを聞いてくれて、それなりのことをしてくれるはずだ、願うこととまるで反対のようなことを起こすことはないだろう、そんなことをするようなら、神を赦さない、信じてやらない、というようなところがあるのではないか。神はいつも自分にいいものを与えてくれるもの、それもいいものというのが結局は自分が欲しいものということであって、自分の欲しいものを次から次へと与えてくれるものというように考えがちではないかと思う。そして自分の願い通りになる時は、神さま有り難うといい、願いが叶わないとどうして神は私の願いを聞いてくれないのかと文句を言ったりする。あるいは自分の願いを聞いてくれないなんていう神は信じないというようなことになりがちだ。こんなに祈ったのに聞いてくれなかったという声を聞くこともある。
けれども神は決してドラえもんではないのだ。私たちの願うことを次から次へと叶えてくれるロボットではない。願いが叶うときだけ働いていて、叶わないときには何もしてないというような道具ではない。
神はいつも、私たちの願いが叶うときも叶わないときも、いつも私たちと共にいてくれる、そして私たちが見えないところで私たちの全てを支えてくれている方なのだと思う。
なかなか思うようにいかないのが私たちの現実でもある。私たちの教会もなかなか人数も増えないし献金も少ないし年寄りばかりだし、誰かどうにかしてくれ、神さまどうかしてくれ、と思うようなことが多いのではないか。自分はどうせ何も出来ないし、教会もどうにもなりそうにない、というあきらめがある。神さま奇跡を起こしてください、と祈りたい心境だ。けれども私たちに対しても神は奮い立て、あなたが奮い立つのだ、私たちを信じるのだ、と言われているのではないか。こんなことでいいのだろうか、どうせ自分は何もできない、ダメなクリスチャンだ、とばかり思っている私たちに、あなたが私の業を行うのだ、あなたが私の福音を知らせるのだ、私はあなたを等して私たちの力を表す、と言われているのではないかと思う。いつまでも神を信じない者のように、神の力を信じられない者のように、どうせこんな私はダメだ、大したことはできない、と思っている時ではないのだ。あなたが私の葦となって平和を、恵みのよい知らせを、救いを伝えるのだ、神を伝えるのだと言われているようだ。
美しい
いかに美しいことか、山々を行き巡り、よい知らせを伝える者の足は。と言われる。当時は今のような立派な靴もなかったであろうし、裸足に近いようなものだったようだ。外を歩けば誇りにまみれ、傷ついたりひび割れたりするような状況だっただろう。しかし福音を告げ歩くことで汗と誇りにまみれ傷ついた足こそが美しいというのだ。私たちもいろんなことに挑戦することで失敗したり疲れたりする。いろいろとやってみてもうまくいかないこともある。うまくいかないことの方が多い。けれどもそうやって失敗しながら挑戦する、神の業に担っていこうとする、それこそが美しい足となることなのだと思う。
前も後も
前も後も主が守っておられる。必死についていかなければ遅れてしまうというようなことではない。こんなだらしないことで、こんないい加減な事でどうするのか、こんなに何も出来なくてどうするのか、きっと神からも見捨てられてしまうに違いない、きっと神からずっとずっと離れてしまっているに違いないと思うようなこともある。しかし決してそんなことはないのだ。どこにいても、全く動かなかったとしてもその後に神が居てくれているのだ。しんがりをしっかりと守ってくれているのだ。誰も落ちこぼれてしまうことがないようにしっかりと守ってくれているのだ。
逆に自分の力だけで何でも切り開いてきたと思うこともあるかもしれないがそんなことはない。どんな時もそこに神が共にいてくれているのだ。自分の力だけでどんどん進んでいけるわけでもない。
厳しい現実の中にあっても、そこに神の働きを、神の支えを見続けて生きたいと思う。そして諦めることなく、失敗したり嘆いたりしながらも、神の福音を伝えて行きたいと思う。前も後も神は支えてくれている。だから安心して神の務めを果たしていこう。それは私たちの喜びでもあるのだろう。教会に喜びがなくなるときというのは、その神の務めを果たすことを忘れてしまう時なのだと思う。神に向かって奮い立て奮い立て、とはいいつつ、神からの奮い立てをいう言葉を聞かなくなってしまったとき、そこには喜びがなくなってしまうのだと思う。神が私たちをも神の民としてくれていること、私たちの見えないところで私たちのすべてをしっかりと支えてくれていること、そのことをまず私たちが喜びたいと思う。そしてそのことを隣人に伝えていきたいと思う。