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礼拝メッセージより
説教題:「約束」 2002年10月27日
聖書:エレミヤ書 33章10-26節
時
◆ユダの王ヨヤキン
24:8 ヨヤキンは十八歳で王となり、三か月間エルサレムで王位にあった。その母は名をネフシュタといい、エルサレム出身のエルナタンの娘であった。 24:9 彼は父が行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。 24:10 そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの部将たちがエルサレムに攻め上って来て、この都を包囲した。 24:11 部将たちが都を包囲しているところに、バビロンの王ネブカドネツァルも来た。 24:12 ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。 24:13 主が告げられたとおり、バビロンの王は主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ。 24:14 彼はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。 24:15 彼はヨヤキンを捕囚としてバビロンに連れ去り、その王の母、王妃たち、宦官たち、国の有力者たちも、捕囚としてエルサレムからバビロンに行かせた。 24:16 バビロンの王はすべての軍人七千人、職人と鍛冶千人、勇敢な戦士全員を、捕囚としてバビロンに連れて行った。 24:17 バビロンの王はヨヤキンに代えて、そのおじマタンヤを王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。(列王記下)
紀元前597年、バビロン軍はエルサレムの町や神殿に手をつけることをしなかったが、多くの人々をバビロンへ移し補囚の民とした。
◆エルサレムの陥落
25:1 ゼデキヤの治世第九年の第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、陣を敷き、周りに堡塁を築いた。 25:2 都は包囲され、ゼデキヤ王の第十一年に至った。 25:3 その月の九日に都の中で飢えが厳しくなり、国の民の食糧が尽き、 25:4 都の一角が破られた。カルデア人が都を取り巻いていたが、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って逃げ出した。王はアラバに向かって行った。 25:5 カルデア軍は王の後を追い、エリコの荒れ地で彼に追いついた。王の軍隊はすべて王を離れ去ってちりぢりになった。 25:6 王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。 25:7 彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。 25:8 第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、 25:9 主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。 25:10 また親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した。 25:11 民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。 25:12 この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。 25:13 カルデア人は主の神殿の青銅の柱、台車、主の神殿にあった青銅の「海」を砕いて、その青銅をバビロンへ運び去り、 25:14 壺、十能、芯切り鋏、柄杓など、祭儀用の青銅の器をことごとく奪い取った。 25:15 また親衛隊の長は、火皿、鉢など、金製品も銀製品もすべて奪い取った。 25:16 ソロモンが主の神殿のために作らせた二本の柱、一つの「海」、台車についていえば、これらすべてのものの青銅の重量は量りきれなかった。 25:17 一本の柱の高さは十八アンマで、その上に青銅の柱頭があり、その柱頭の高さが三アンマ、柱頭の周りには格子模様の浮き彫りとざくろがあって、このすべてが青銅であった。もう一本の柱も格子模様の浮き彫りまで同様に出来ていた。 25:18 親衛隊の長は、祭司長セラヤ、次席祭司ツェファンヤ、入り口を守る者三人を捕らえた。 25:19 また彼は、戦士の監督をする宦官一人、都にいた王の側近五人、国の民の徴兵を担当する将軍の書記官、および都にいた国の民六十人を都から連れ去った。 25:20 親衛隊の長ネブザルアダンは彼らを捕らえて、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行った。 25:21 バビロンの王はハマト地方のリブラで彼らを打ち殺した。こうしてユダは自分の土地を追われて捕囚となった。
紀元前587年、補囚の規模は小さかったが、町と神殿は破壊された。
自分たちが信仰の拠り所としていた神殿が破壊されてしまったことはユダヤ人にとっては大きなショックだっただろう。目に見える大きな神殿があるということはそれだけでユダヤ人に安心感を与えていたことだろう。
それまではアッシリア軍に包囲されても奇跡的に助かったこともあった。そんなことからエルサレムの不滅、神殿の不滅という考えが広がっていたそうだ。不敗神話のようなものか。神殿がある限り、自分たちが滅ぼされるようなことはない、というような考えが広がっていたのだろう。
確かに神殿はそこで犠牲を献げるという大切な場所であった。犠牲をささげることで神とのつながりを持っていたわけだから。しかし神殿があるから自分たちは大丈夫なのだ、神殿がある限り守られるのだ、ということになるとそれはおかしなことになる。神に守られるというよりも神殿に守られるということになればそれは変な話しだ。けれども当時のユダヤ人たちはそんな傾向にあったようだ。神殿があってそこで犠牲をささげている、それをしておけばもう後は何もしなくてもいい、というような思いがあったようだ。目に見える大きな神殿で、目に見える犠牲を献げることだけが大事になり、日常の生活の中で隣人を大事にすることもなく、困っている者や弱い立場の者のことを全く省みることもなくなってしまうこと、それはいろんな預言者たちが指摘してきたことでもある。
しかしその頼りとしてきた神殿も破壊されてしまったことは多くのユダヤ人たちにとっては自分たちの信仰も崩されたような思いになることでもあったのだろうと思う。
約束
けれどもそんな時に神はエレミヤを通して民に語る。
「33:14 見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。 33:15 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。 33:16 その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」
神殿という目に見える対象をなくしてしまったユダヤ人たちに対して、神は恵みを約束する。そしてその約束、契約は決して破棄されることがないという。昼と夜が交互にやってくることが変わらないように、その契約はなくならないという。昼と夜がなくならないように、それほど確かに神はイスラエルの繁栄を回復し、彼らを憐れむというのだ。
目に見える信仰の対象がなくなったとき、国も滅び神殿も破壊されたその時に、神はイスラエルに語りかける。目に見えない言葉によって神はイスラエルに約束する。
そしてそれはイスラエルにとっては信仰の再吟味の時となったに違いない。そして実際バビロン補囚の間に旧約聖書の多くが編集されたそうだ。自分たちの信じてきたことは何だったのか。自分たちの信仰とは何だったのか、そのことを吟味する時となったようだ。目に見える形がなくなった時に初めて目に見えない神が見えてきた、神の言葉が聞こえてきたということかもしれない。
目に見えるものに縛られるというのは決して当時のイスラエルの人たちだけの話ではなくて、私たちにも同じように言えることだ。
教会堂が新しくなった。よく教会が新しくなったんですねえと言われる。教会という言葉は建物のことも言うときもある。けれども厳密に言うと教会と教会堂は別物だ。教会堂は建物のことを言うが、教会は人のことを言う。人の集まりを言う。ギリシャ語で教会と訳されている言葉は呼び集められ者という意味だそうだ。神に呼び集められた者たち、つまり本来私たち人間が教会なのであって、建物が教会ではないのだ。だから建物がなくてもそこに呼び集められた者たちがいればそこには教会がある。反対に建物があっても、そこに呼び集められた者がいなければそこは教会ではない。
そして勿論大事なのは教会であって教会堂ではない。教会堂がいくら立派でもそこに集まってくる人たちが喜びも何もなければそれは全然立派な教会ではない。私たち一人一人が教会なのだ。教会の顔というような言い方をする。教会堂の正面が教会の顔であるとか、週報が教会の顔であるというような言い方をする。あるいは牧師が教会の顔であるとか。確かにそういう面はあるだろうが、本当は私たち一人一人が教会の顔なのだ。一人一人が教会なのだから。私たちは決して牧師のやっている教会に行っているただのひとではないのだ。教派によってはそんなところもあるかもしれない。牧師や神父が教会で待っていてそこに教会員が通うというような教会もあるのかもしれない。しかし私たちバプテストはそうではない。みんなの教会であり、一人一人が教会なのだ。牧師もその中にいたり、いないときもある。牧師がいてもいなくても、呼び集められた者がいるところが教会なのだ。
教会が新しくなりましたねえと言われるけれども、会堂が新しくなったけれどもだから教会が新しくなったわけではない、というのが正確な言い方だろう。
そして会堂よりも教会を立派にすることの方がよっぽど大事なことだ。会堂をきれいにすることも大事だが、それ以上に教会をきれいに、教会の一人一人を大事にすることの方が余程大事なことだ。
もちろん教会の中も罪も汚れも間違いもいっぱい抱えている。そんな人間の集まりでもある。いろんな失敗もする。けれどもそんな人間の集まりである教会を神は愛して憐れんでいる。そして私たちの目指すところは神がそうしてくれているように互いに愛し憐れむことだろう。間違いをなくして失敗をなくして神のようになることを目指すことが私たちの目標ではなく、間違いも失敗もある者同士として互いに愛し憐れむこと、それが私たちの目指すところだと思う。それでこそ教会が安心できるところとなり、そこにいることが喜びとなるのだと思う。みんなが喜びを持って集まれる、そして新しい人たちも安心して集まれる教会になりたいと思う。そして会堂も新しくなり、今度は教会も新しくなりましたと言えるようになりたいと思う。