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礼拝メッセージより
不条理
人生はなかなか思うようにいかないなあと思う。なかなかというより全然と言った方がいいのかも。昔テレビで有名私立小学校だったか小学生に将来何になりたいかと聞いたのを見たことがあるけれど、弁護士になりたいとか、医者になりたいとか、官僚になりたいとか言っていた。順調にいい成績を取っていい学校へいって、順調にいい仕事について、良い人と結婚して、という風に順風満帆に進むことを目指してその通りにいくことがいい人生だ、と何となく思っている。そして躓いて落ちこぼれるのは失敗の人生だというような気持ちがある。でも人生というのはそうそう思うようにいかない。躓いたり失敗したりすることがある。一度の躓きや失敗で落ちこぼれるとしたら、この世は落ちこぼれの集まりのような気がしている。
障がいを持って生まれてきた人、愛してくれない親のもとに生まれた人、貧しい家庭に生まれた人、周りから差別の目で見られている家庭に生まれた人などは、生まれながらに落ちこぼれの烙印を押されているような思いでいるのではないかと思う。どうしてこんな身体に生まれたのか、どうしてこんな家に生まれたのか、どうしてこんな親の元に生まれたのか、そんな風に思う人もいっぱいいると思う。自分の所為でもないのに背負わされた不条理を、実は大なり小なり誰しもが、なにかしらの形で抱えつつ生きているのではないかと思う。
飼い葉桶
今日の聖書はイエス誕生の様子が書かれている箇所だ。
イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれたとルカによる福音書もマタイによる福音書も書いている。権力者のことに関する資料は結構残っているそうで、それによるとヘロデ王は紀元前4年に死んだと思われるそうだ。ところが2節に出てくるキリニウスがシリア州に総督であったときの最初の住民登録というのは紀元後8年位の出来事だったそうで時代的に食い違うらしい。
当時ユダヤ地方はローマ帝国の支配下にあったわけだが、ローマの住民登録は現在住んでいる場所で行うものだったそうだ。住民登録はきちんと税金を取るためにするものであって、当然現住所でしないと先祖の土地でしたとしたらただただ混乱するだけだ。また当時は家父長制の強い時代だったので家長だけが登録すればよくて、登録のために許嫁を連れて行く必要もなかったそうだ。
イエス誕生の出来事は最初に書かれたマルコによる福音書には書かれておらず、マタイとルカだけの福音書に書かれている。しかもマタイとルカに書かれている内容も随分食い違いがある。ルカではヨセフとマリアはナザレに住んでいて、住民登録のためにベツレヘムへ行ったと書いている。しかしマタイはもともとベツレヘムに住んでいたが、ヘロデから逃げるようにということでエジプトへ行きその後ナザレに移り住んだと書いている。
恐らくイエス誕生の詳しい事情を知る人は、福音書が書かれた時代の教会にはきっと誰もいなくて、ただイエスはナザレの人だと言われているが生まれはベツレヘムである、ということだけが言い伝えられていたのだろうと思う。ベツレヘムで生まれたのになぜナザレの人だと言われているのかという答えとしてルカは、ヨセフとマリアが住民登録のために旅をしている最中にイエスが産まれたということにしたのだと思う。ナザレからベツレヘムまでは120km位離れていると書いてあった。今にも生まれそうな身重の女性が、徒歩かロバに乗るかしか方法がない中で120kmも旅をするなんてことは考えにくい。
ベツレヘムで生まれるというのは、旧約聖書のミカ書5章1節に「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの士族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」という言葉があり、また救い主はかつてのダビデと同じように強い国を再建する人物だと期待されていたようで、ダビデの生まれ故郷でもあるベツレヘムで生まれるはずだと言われていたそうで、イエスはベツレヘムで生まれたという話しが伝わっていたのだろうと思う。ルカはそんな話しも踏まえつつ、イエスがベツレヘムで産まれたと書くことで、イエスは救い主だ、旧約聖書の時から預言されていたキリストだ、ということを言いたいのだと思う。
ルカは、これが歴史上に本当に起こった真実だと言いたいのではなく、イエスこそがキリストであること、そしてイエスとはどういう方か、どういう風に生きたのか、そんなことをの物語を等して伝えようとしているのだと思う。
つまりイエスは王の子どものように、みんなから今か今かと注目された中で権力を持って生まれた訳ではないということだ。そうではなく私たちと同じようにただの庶民として、時の権力者の命令に従わなければならない所に生まれた、それに逆らう術も力もない所に生まれたということを伝えているのだと思う。
ルカは宿屋には泊まる場所もなく子どもは布にくるんで飼い葉桶に寝かせたと書いている。よくイエスは馬小屋で生まれたという風に言われるけれど、実際聖書には馬小屋とか家畜小屋という言葉は出てこない。ただ飼い葉桶という言葉が出てくるだけだ。イエスは誰からも特別扱いされない所、誰からも見捨てられるような所に生まれた、ルカはそのことを伝えているのではないかと思う。
羊飼い
そしてイエス誕生の知らせを最初に伝えられたのは羊飼いたちだったと書いている。その頃ユダヤの地方では羊飼いは落ちこぼれた人達と見られていたそうだ。羊飼いという仕事は当時はまっとうな仕事とはみなされていなかった。羊飼いは人口調査の対象にもならず、税金を支払う能力もないと考えられ、一人前の人として認められていなかったそうだ。
ユダヤ教が社会の基盤となっていた時代だったけれど、羊飼いは各地を転々として羊を放牧するため、決まった時に神殿に行き献げ物をすることが出来ないとか、あるいは安息日などの律法を守れないということで宗教的な面からも社会の落ちこぼれと見られていたそうだ。
しかしこのルカによる福音書によると、イエスの誕生を最初に知らされたのはそんな羊飼いたちであったというのだ。社会からのけ者にされている者たち、社会からつまはじきされている者たち、言わば落ちこぼれの代表であった羊飼いたちにキリストの誕生は真っ先に知らされたというわけだ。
それはまさにイエスの生き様を表しているようだ。イエス自身、お前は私生児だと蔑まれ差別されて生きてきたようだ。そしてそんな人達と共に生きた。周りから駄目人間の烙印を押され、自分でもこんな自分は落ちこぼれで何の価値もない人間だと思っている、そんな人達と共に生きてきた。ルカは福音書の中でそんなイエスの生き様を伝えているが、羊飼いはまさにその象徴でもあるように思う。
イエスに会った羊飼いたちは喜び、讃美しながら帰っていったと書かれている。それはとても面白いと思う。イエス・キリストに会うことで彼らの状況が変わったわけではない。何も変わっていない。強くなったわけでも立派になった訳でも有名になったわけでもない。しかし彼らは喜びを発見したというのはとても面白いと思う。
私たちが神に願うことは、自分の願いを叶えて欲しいということではないか。あれもこれもしてほしい、金持ちにして欲しい、元気にして欲しい、地位も名誉も欲しいと願う。そして叶ったら喜べると思っている。
しかし羊飼いたちはイエスに会ってもことさらに何かを求めることもなかった。しかし自分の人生に神が関わっておられること、自分のところにキリストが来てくれたこと、ひとりぼっちではないことを知ったこと、それが彼らにとってはなによりの喜びだったというのだ。ルカは喜びのもとはそういうところにあるんだと伝えたいんじゃないかと思った。
ひとりぽっちじゃない
いろんな不条理を背負って生きている私たちだ。しかしそんな私たちのところへ、私生児という不条理を背負ってイエスは生まれてきた。不条理の中で苦しみつつ悩みつつ生きている、そんな私たちの真ん中に生まれてきた。それは私たちを決して一人ぼっちにはしないという神の決意の現れなのではないかと思う。
イエスは不条理を背負って弱い小さな人間として生まれてきた。そして同じように不条理を背負ってひとりぼっちで生きている、そんな私たちの心の中に来てくれる。入ってきてくれているに違いないと思う。私たちの周りの状況は何も変わらないかもしれない、自分自身も何も変わらないかもしれない、しかし私たちの心の中にイエスがいてくれている、それは私たちにとってなによりの喜びである、ルカはそのことを伝えているのではないか。
「クリスマスのメッセージ、
それは、私たちは決してひとりぼっちではないということ。」
テイラー・コールドウェル