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礼拝メッセージより
献児
日本でもよくお宮参りというのをするみたいだけれど、今日の聖書の箇所もそれと似ているのかもしれない。
すぐ前の21節でイエスに割礼を施したことが出てくる。割礼とはユダヤの律法によれば、男の子は生後八日目に割礼を受けねばならない。その子はこの儀式によって、神と契約を結んだ民の一人となる。そして「幼な子はイエスと名付けられた」。割礼を受けるときに父が子に名前をつける習慣があり、親族一同にとってもそれは大きな祝いの時だった。
そして両親はきよめの期間を過ぎた時にエルサレムに連れていった。レビ記12章によれば、男の子を出産した場合40日、女の子の場合は80日がけがれる。この期間がすぎたあと、エルサレムで母親は一歳の小羊と鳩を持って祭司の所へ行くことになっていた。貧しい場合は小羊は献げなくてよかったそうで、ヨセフとマリアは貧しかったので鳩だけをささげたようだ。
マリアはその自分自身のきよめのためと、幼な子をささげるためにエルサレムにやってきた。出エジプト記13:2「すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人びとの間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである」とある。幼な子をささげるというのは、出エジプトの時に、初めての男の子を神のささげたことから始まったとされている。ささげものは本来ならば殺されるはずだが、民数記18:15-16「人であれ、家畜であれ、主にささげられる生き物の初子はすべて、あなたのものとなる。ただし、人の初子は必ず贖わねばならない。また、汚れた家畜の初子も贖わねばならない。初子は、生後一ヶ月を経た後、銀五シェケル、つまり一シェケル当たり二十ゲラの聖所シェケルの贖い金を支払う」とあるように、神のものとなった初子を20デナリ、1デナリは一日の給料だそうなので20万円くらいで贖う、つまり神から買い戻すということのようだ。
シメオン
その時エルサレムにシメオンという老人がいた。シメオンというのは「聞き入れられた」という意味だそうだ。新約聖書では「シモン」と言われることが多い。話しの内容からするとシメオンはおじいさんのようだ。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいたとある。信仰があつい人とは神の戒めと定めとを守っていたということのようだ。
シメオンの時代の人たちの多くは形だけは一所懸命に律法を守っている人が大勢いたようだ。神はどうあれ、神との関係はどうあれ、律法に書かれている通りにしておけばいいのだ、ということで守っているような人が多かったようだ。そして後々イエスが怒ったのもそんな見ばえだけはいいが中身のない、ただ律法を守るという形だけにこだわって、そのことを威張り、守れないものを疎外し差別していた人たちだった。
しかしシメオンは幼な子のイエスが救い主であると示される。そこで神を讃美する。この賛歌はヌンク・ディミティスと言われる。
この中でイエスのことを「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と告げる。イエスはイスラエル民族だけの救い主だけではなく、全世界の民の救い主であると予言する。31「これは万民のために整えてくださった救い」だと言う。会っただけでそんなことがどうして分かるのかと言う気もするけれど。
シメオンはここで預言したようなことが書かれているけれど、実際に言ったのかもしれないけれど、この言葉はむしろ福音書を編集したルカの信仰告白なのではないかと思う。イエスこそユダヤ人たちが待ち焦がれていた救い主である。しかしそれはユダヤ人だけではなく、万民のための救い、異邦人をも照らす啓示の光なんだということをルカは伝えようとしているのだと思う。
ユダヤ人たちは自分達だけの救い主、自分の国を強くして敵をやっつけてくれる救い主を待ち望んでいたようだ。しかしイエスはユダヤ人だけではなく異邦人をも照らす光、万民を救う救い主であるのだと告げている。
シメオンは25節にはイスラエルの慰められるのを待ち望んでいたと書かれている。しかしイエスを万民のための救い主だと語っている。
イエスと出会うことで狭く凝り固まった考えが変えられるということを伝えているのかもしれない。それが救いでもあるように思う。
救いというと、死んだ後天国へ行けるようにしてもらうこととか、自分の周りの状況を自分の願いどおりに変えてくれること、苦しい大変な状況をなくしてくれたり、自分を苦しめる人間に罰を与えてくれたり、周りの悪い人間をいい人間に変えてくれること、そんな風に自分のまわりを変えてくれることが救いであるように思っている。けれども救いとはそんなことではなくて、イエスと出会い自分が変えられる、自分の思いが変えられることこそがきっと救いなのだ。
一歩を踏み出す
イエスとの出会いでシメオンの思いが変えられたように、イエスと出会うこと、イエスのの言葉と出会うことで、私たちも一歩を踏み出す元気と希望が与えられるに違いないと思う。一歩を踏み出せばそれだけ景色は変わり、周りの見え方も変わってくる。それは周りを変えることに等しい。
一歩を踏み出させないという力に私たちは縛られているのだろう。お前はどうせ何もできないと言われた言葉、どうせ自分は駄目だから、何もできないからと思う気持ち、世間体や常識、あるいは周りからの目を気にする気持ち、いろいろな物に私たちは縛られている。
そんな私たちにイエスは、お前は駄目じゃない、全然駄目じゃない、お前には力がある、お前は何だってできる、お前は大切な大事な人間だ、そう語りかけてくれているのではないか。
イエスとの出会いによって一歩を踏み出し、新しい世界を見つけた人達の証言が聖書となっているのだと思う。
もっと自由な世界、もっと生き生きと生きられる世界、そんな世界へ一歩を踏み出す力が湧いてくる、そんなイエスとの出会い、それこそが救いなのだろう。一歩を踏み出した先にはどんな景色が見えてくるのだろうか。
私たちはどこから一歩を踏み出そうとしているのだろう、どこへ向かって一歩を踏み出そうとしているのだろう。