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礼拝メッセージより
マリアの賛歌
47節以下にマリアの賛歌と言われる歌があるが、ラテン語訳聖書の最初の言葉をとって、マグニフィカートと呼ばれている。ここは旧約聖書サムエル記上2:1-10にあるハンナの讃歌に似ていて、そのハンナの讃歌や他の旧約聖書の影響も受けてまとめられているようだ。つまりこの賛歌はルカが福音書をまとめた当時の教会でまとめられていた賛歌、信仰告白のようなものだったのだろうと思う。
突然の出来事
マリアはヨセフと婚約していたけれども聖霊によって妊娠したと書かれている。はっきりしたことは分からないけれど、いいなずけであるヨセフではない誰かとの子どもを妊娠してしまったようだ。
期待されない妊娠で、マリアはとんでもない重荷を負うことになったことだろう。
1章26節以下の所では天使ガブリエルがマリアのところに来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。あなたは神から恵みをいただいた。」なんて言っているけれど、そしてマリアも「お言葉どおり、この身になりますように」なんて言っているが、しかし実際にはとてもそんなこと言ってられるような状況じゃなかっただろうなと思う。
そして生まれてきたイエスも、伝道活動を始めてからはマリアの子だとか、大酒飲みだとか大食漢だと言われているけれども、私生児だということで苦しい境遇の中で、そして周りからの嘲りの中で育ってきたということなんだろうと思う。イエスが差別されたり虐げられていた人達と共に生きたというのは、自分も同じような苦しい思いをしてきて、だからこそそういう人達の気持ちもよく分かっていたのだろうという気がしている。
目に見えるところでは、婚外妊娠をしてしまった母と私生児として生きるという苦しい運命を背負うことになったマリアとイエスだった。しかし実はその背後というか見えないところで神の働き、神の計画があったということを聖書は伝えているのだろう。それが聖霊によってという言葉の意味なんだろうと思う。
低く
そしてマリアの賛歌を通して教会は神が私たちとどう関わってくれているのかということを伝えているのだと思う。
神はいわゆる立派な人ではなく、卑しい者、無名の者、低い者を選ぼうとした、その結果としてマリアが選ばれたということになるのだろう。そしてこの賛歌では、マリアは自分のことを「身分の低い、主のはしため」だと言っている
人はなんとか周りの人から高く見られたい、良く思われたい、と思っているだろう。弱点を持っていることや、失敗すること、挫折することは恥だ、と思っている。その事で周りからの評価が下がってしまうことになると心配している。だから自分が失敗した時には一生懸命弁解したりする。自分が悪かった、自分が間違っていたということをなかなか認められない。自分が失敗したり挫折したり人を傷付けたりすることがある、ということをなかなか認められない。そうでない自分を願っているところがある。自分はそんなだらしない人間ではいけないんだ、そんな人間ではないはずだと思っている。だから失敗や挫折をすることは自分にとっては恥だと思う。そしてそのことを知られることを恐れている。
しかし人間が恥と思っているこれらのことを、神は恥とは思っていない。逆に神はそんな、見捨てられたような人間に注目している。そのようにしてマリアは選ばれた。そこにイエスは生まれたと言うのだ。
神がマリアを選んだということ。それは神がこの世のいやしい者を決して見捨てない、そういう者と共に歩もうと決意したということだ。この「身分が低い」ということばは、卑しいとも訳される、価値がないとかいう意味の言葉だそうだ。
自分のことを卑しく価値のない人間であると思う、そんな人のことを神はしっかりと見つめている、そのことを伝えるために当時の教会はハンナの賛歌を参考にして、マリアにこの言葉を語らせているのだと思う。そしてそれはまさにイエスと共に生きた人達の思いでもあり、後世に伝えたい思いでもあったのだと思う。
逆転
さらに「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力あるものを、その座から引き下ろす」とある。
イエスは低いところに生まれた。いやしいマリアのところに生まれた。そしてどこまでも低いものと共にいようとした。十字架につけられるまで、低い者と共にいた。何の取り柄もないような、なんの価値もないような、罪にまみれている者と共にいた。そんな小さい者のことに神はいつも目を注いでいる。マリアの賛歌はそのことを伝えているのだろう。
幸せとは、立派になって物をいっぱい持って何不自由なく、そして病気もせずに元気に暮らすことのように思っている。そうやって将来の不安も心配もなく暮らせることが幸せのように思っている。けれど実はそんな不安や心配や病気がないことが幸せなのではなく、不安も心配も病気もあるけれど、そんな自分のことを心底心配してくれている方がいるということを知ること、神が自分のことを心配しているということを知ること、のようだ。
神は元気のないものに、元気がなくてもいいんだよ、と言われているんではないか。落ち込んでる者に向って落ち込んでていいんだよ、と言われているのではないか。きっと神は、元気がなくても落ち込んでいてもあなたを私は決して見捨てはしない、あなたといつも共にいるんだ、と言われている。
そして神はそんな風に私たちを憐れんでくれていて、その憐れみを忘れることはない、と約束しておられる。神は私たち一人一人のことを憐れみ続けると言われるのだ。
何の取り得もない、何の業績も残せていない、失敗と挫折ばかり、それが私たちの自分に対する評価なんじゃないかと思う。だからたまにうまくいったときには殊更自慢したくなったりする。でもすぐにまた自分の駄目さを思い知らされて落ち込んでしまう。なんと自分は駄目な小さな人間かと思う。
しかし神はそうじゃない、そうじゃないと言っているようだ。お前はどうでも良い人間じゃない、お前は大切な人間だ、私にとってはとても大切な人間だ、神はそう言っているようだ。
先週も言ったボンヘッファーの言葉の中にこんな言葉がある。『人々が「失われた」と言うところで、神は「見いだした」と言い、人々が「裁かれた」と言うところで、神は「救われた」と言い、人々が「否」というところで、神は「然り」と言う。人々がなげやりな気持や、高慢から、目をそらせるようなところで、神は他のどこにもない愛のこもった目を向けるのである。』
自分に向かって駄目だ駄目だとばっかり言ってる私たちに向かって神は、お前は駄目じゃない、全然駄目じゃない、そう言っているということのようだ。
イエスはそんな神の思いを私たちに伝えてくれた、そして今も私たちの心の中でそう叫んでいるのではないかと思う。