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礼拝メッセージより
あたり目にたたり目?
最近気が付いたけれど、聖書には飢饉の話しがよく出てくる。ユダヤ地方の争いは根本的には水をめぐる争いだと聞いたことがある。水が豊富ではないのでどうしても飢饉になりやすいんだろうと思う。
今日の聖書も北イスラエルが飢饉に見舞われた時の話しだ。その上北の国のアラム軍が責めてきて首都であるサマリアは包囲され、兵糧攻めされてしまったらしい。飢饉の上に兵糧攻めであたり目にたたり目って感じ。生活に必要なものが足りなくなり物価が上昇してしまう。
6章では、一人の女が王に向かって救ってくれと訴えたという話しが書かれている。ある女が、今日はあなたの子どもを食べ、明日は私の子どもをたべましょうと言ったので自分の子どもを煮て食べた。しかし次の日にあなたの子どもを食べましょうと言うとその女は子どもを隠してしまった、ということだった。
それを聞いた王は衣を裂いた。衣を裂くというのは悲しみの表現だそうだ。しかしここでは悲しんだと言うより怒ったような気がする。こんな事態になってしまったことに対して神に怒った。そしてその時の預言者エリシャに怒った。そしてエリシャの首をはねるために使者を遣わした。その使者に対する答えが7章の最初の言葉である。
その時の物価が6章25節に書かれている。ろばの頭一つが銀80シェケル、1シェケルは11.4gなので80シェケルは約1kgになる。ろばの頭を何に使うのか、スープでも作るのかどうか分からないけれどそれが銀1kgで売られていた。また鳩の糞四分の一カブが5シェケル。鳩の糞とは、飢饉の時には食べたとか、塩の代わりに使ったとか、エジプト豆の俗称だとか、いろいろ節があるそうだ。1カブとは約1.3リットルだそうで、四分の一カブは0.3リットル少々ということになるが、そんな普段ならほとんど価値のないようなものが銀50gで売られるような大変な物価高になってしまっていた。
城壁の中は食べるものもなくなりつつある、外へ出ればアラムの軍隊が包囲している、もうどうしようもない絶望的な状態だったということだ。
それなのにエリシャは王の使者に対して主の言葉を語る。「明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉1セアが1シェケル、大麦2セアが1シェケルで売られる」と。1セアは7.7リットル。0.3リットルほどの鳩の糞が5シェケルもしているのに、明日になったら小麦粉7.7リットルが1シェケルになるなんて言うわけだ。そんなことある訳ないだろうと思うのが普通だろう。王の使者は、主が天に窓を造られたとしてもそんなことはなかろう、と言ったという。誰だってそう思うような状況だったわけだ。
皮膚病
その頃、城門の入り口に重い皮膚病を患う者が4人いた。そして相談した。町に入ったところで食べ物も少なくて自分達に分けてくれるようなこともないだろう。かといってここにじっと座っていてもただ死を待つだけだ。だったらアラム軍に投降しよう、殺されるかも知れないが、もし生かしてくれたら儲けものという訳だ。
ところがその頃アラム軍はというと、主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたために、周りの国と結託して自分達を攻めてきたと思ってあわてて逃げてしまっていたというのだ。
4人はそんな逃げてしまったアラム軍の陣営にやってきた。アラム軍は命からがら、何も持たずに逃げたために、陣営には天幕も馬もろばも捨てたままだった。そこで4人は飲み食いし、銀や金、衣服を運び出して隠した。当初は4人だけの秘密にした。しかしこのまま黙っていては自分達が罰を受けるかもしれないと思い返したらしくて、王家の人たちに知らせることにした。そこで町の門衛にこのことを知らせた。
しかし知らせを聞いた王は、これはアラム軍の策略で、撤退したと見せかけて、イスラエル人が町から出てきたら生け捕りにして町に攻めていこうとしているのだと言い出す。相当臆病になっていたのか。しかしそうやって何もしないでじっとしていてても、いずれは飢え死にするだけだが。ということもあったのだろうか、王の家臣が、ならば偵察に行かせてみましょうと言い、それによってアラム軍が何もかも置いたまま、慌てて逃げていったこと、四人の重い皮膚病の人たちの言うことが正しかったことが分かった。そしてみんなでアラム軍の残していったものを取りに行き、食料もいっぱい取ってきたのだろう、小麦粉も大麦も、エリシャが言ったとおりに安くなったという話しだ。
分ける?
イスラエルの町は城壁に囲まれていた。そして皮膚病の人たちはその城壁の外にいた。病気は罪の結果であり汚れているという風に考えられていたらしい。そして重い皮膚病とは治らない病気のことだそうだが、皮膚の病気は一目瞭然だったのでみんなからのけ者にされていたのだろう。それで仕方なく町の外にいて、町から出るごみ、残飯を食べていたんじゃないか書かれているものもあった。飢饉になって兵糧攻めにあって、残飯にもありつけなくなってしまっていたということなのかもしれない。
しかしそんな彼らが最初にアラム軍が逃げていったことを知った。そこにいろんなものを残していったことを知った。そしてそれを知っているのはその四人だけだった。彼らも最初は自分達だけで飲み食いして、戦利品を運び出して隠した。それを繰り返して四人だけの秘密にしておいてもよかった。町の中の人たちが気が付くまで知らんぷりをしていてもよかった。その間に自分達はたらふく食べて、金目の物はどこかに隠しておけばよかった。僕だったらそうしそうだ。だって町の奴らは自分達を差別してきたんだから、おまえみたいな汚れた罪深いものは町の外で暮らせって言われてきたんだから。
でも彼らは独り占めしなかった。それでイスラエルの人たちは救われた。自分だけのもの、自分達だけのものにせずにみんなのものにした。みんなで分けた。それでみんなが助かった。飢饉も物価高も、重い皮膚病の人たちがアラム軍の逃走を知らせてくれたことで治まった。
偉いよなあと思う。黙ってたら罰を受けるだろうからと書いてあるけれど。俺たちをいじめてた罰だ、お前らはいつまでも腹を空かしていろ、ざまあみろなんて思わなかったんだろうか。
知らないうちに
兎に角、エリシャが語った主の言葉はこうして実現した。最初のこの言葉を聞いた王の侍従は信じないで後で民に踏み倒されて死んだと書かれている。でも信じなかったのは侍従だけではなく王も信じてはいない。皮膚病を患う四人もエリシャの言葉を信じたからアラムの陣営に言った訳ではなかった。そうするとエリシャの言葉を信じた人は誰も登場しない。
誰も信じなかったことが起こった、誰も信じられないことを神が起こしたということなんだろう。神は民が信じる前に既に事を起こしているということか。神は私たちが気づく前に、知らないうちに既に動いている、守ってくれているということのようだ。私たちはそのことを後で知り、後から信じるのかもしれない。
私たちが、希望を持てない、何の手立ても見えない、神も信じられない、そんな時にも、実は私たちが見えない所で神は私たちのために救いを用意してくれているということ、今日の聖書はそのことを伝えてくれているように思う。
私たちが信じることで神が何かしてくれる、信じる力で神を動かすんじゃなくて、信じるよりも前に、私たちの知らないうちに神は既に動いていてくれて、助けを、救いを用意してくれているということのようだ。
私たちが信じるのは、その神の助け、神の救いを知りそれを受け止めるということなんだろうと思う。
私たちが知らないうちに既に神は私たちを守ってくれている、だからたとえ真っ暗闇の中を生きるような時にも、そこに希望を持って生きていきたいと思う。