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礼拝メッセージより
上を向いて
中学の時にラジカセを買ってもらってからラジオ少年になった。愛媛にいながら遠くの放送をよく聞いていた。広島のラジオもよく聞いていて、いつの間にかカープファンになっていた。広島だけではなくて夜は東京や名古屋とかの放送も聞いたりしていた。記憶に残っているのが、永六輔七転八倒という放送だ。その頃身近では七転び八起きで立派に生きるべきというような雰囲気を感じていてしんどい気持ちが強かったけれど、永さんの放送は綺麗事じゃなくて本音を語っているように感じて好きだった。
少し前に永六輔さんが亡くなった。こんな凄い人だったとはあの頃はちっtも知らなかった。上を向いて歩こうという詩も書いてたけれど、たまたま昨日その詩を調べたら、一人ぽっちの夜、となっていた。てっきり一人ぼっちの夜だと思っていた。何回も歌ってたのに知らなかった。
時
紀元前625年、新バビロニア帝国はカルデアに興り、前612年にアッシリアの首都ニネベを攻め落とした。これに対してエジプトの王ファラオ・ネコは、バビロニアに対抗するためにアッシリアと同盟を結び、エジプトはユダを通って北上した。これを阻止しようとしたユダのヨシヤ王は戦死し、ヨシヤの四男子ヨアハズが王となった。しかしエジプトのファラオ・ネコはヨアハズの代わりにヨシヤの次男エルヤキムを王をさせて、名前もヨヤキムと改めさせた。退位させられたヨアハズはリブラという所に幽閉されて、その後エジプトへ連れて行かれそこで死んだ。
バビロニアとエジプト・アッシリア連合軍との戦いは前605年にカルケミシュでバビロニア軍が勝利し、バビロニアはパレスチナまでを支配することとなった。ユダのヨヤキム王は三年間はバビロニアに従っていたが、前601年にバビロニア軍とエジプト軍が戦った。両軍共に大きな打撃を受け、バビロニア軍は態勢を建て直すために自国に退いた。その機に乗じて、ヨヤキム王はバビロニアに反旗を翻したが、態勢を建て直したバビロニア軍によって、前597年エルサレムは陥落した。ヨヤキムの後に王となっていた息子のヨヤキン王は即位後三ヶ月で捕らえられ、多くの有力者と共にバビロンへ移された。これが第一回バビロン捕囚といわれる。
バビロニアはヨシヤ王の三男でヨヤキンのおじにあたるマタンヤを次の王位に就けて、名前をゼデキヤと改めさせた。しかしゼデキヤは親エジプト派の声に押されて、反バビロニアの立場を取るようになった。紀元前586年にバビロニア軍によってエルサレムは陥落し、ゼデキヤ王と一部の貧しい民を除く多くの民がバビロニアに移された。これが第二回バビロン捕囚と言われる。
幻
エゼキエルは第一回バビロン捕囚でバビロンへ移住させられていた。エゼキエルはカルデアの地ケバル川の河畔で見た幻が今日の所に書かれている。それは1節には第30年の4月5日と書かれているがいつなのかはっきりしない。2節ではヨヤキン王が補囚となって第5年5月5日のことだと書かれているので、バビロンへ連れて行かれてから5年後ということなんだろう。
その幻は四つの顔を持っている生き物で、10章ではケルビムと言われている。ケルビムとは超人的な存在で、エデンの園で命の木を守っていたのがケルビムで、神の玉座や聖なる場所を守ったり、神の乗り物とも言われているそうだ。
そのケルビムの説明がここに書かれている訳だけれど、全くもって何がどうなっているのか分からない。だいたいこんなものを文章で説明しようとすること自体が間違っている、ような気がする。最初から絵に描いてくれればいいのにと思う。説明を聞いて、ここがこうなっていて、あそこはこうなっていてなんて、自分の頭の中でイメージするのは大変だ。絵にして見せてくれたら一目で分かるのになあと思う。
という訳で姿形がどういうものだったのかはっきりしないけれど、とにかく光輝くケルビムが現れて動き回っていて、空からは大きな音が響いた。28節では、これが主の栄光の姿の有り様であったと書かれている。
絵で見せてくれないと、どういう幻なのか全くもって分からないけれど、エゼキエルはその幻を見たことによって神の存在を感じたということだ。圧倒的な迫力を持って迫ってきたということなんだろうなと思う。
自分達の国は外国に支配され、自分も補囚されて外国暮らしをしている。祭司の家庭に生まれて自分も祭司として働いていたのだろう。神に仕え、神に期待していたことと思う。神が自分達の国を守ってくれると思っていたに違いないと思う。しかし戦いに負けて支配されることで、自分達の国はどうなるのか、自分達の生活はどうなるのか、自分達は正しかったのか、自分達の神は弱い神なのか、この神に望みをかけていて大丈夫なのか、そんなことも思っていたんじゃないかと思う。
わくわくドキドキ
エゼキエルは幻を見たことによって、神の存在を感じ、元気になっていったに違いないと思う。神はいる、神はここにもいる、この神を信じていけばいい、この神に希望を持っていけばいい、自分の信じる道は間違ってはいない、そんなことを感じて元気になっていったに違いないと思う。
逆に言うとエゼキエルをそんな元気にさせるために、ワクワクドキドキさせるために、神は幻を見せたんじゃないかなと思う。
神を信じるというのは、わくわくドキドキすること、わくわくドキドキさせてもらうことじゃないかと思う。絶望するしかないような時にも、下を向くしかないような時にも、お前を一人にはしない、お前は一人ぽっちじゃない、何があっても一人ぽっちにはさせない、お前が大切だ、お前を愛している、そんな神の声を聞いていくということだと思う。そんな神の声を聞くことで、あるいは幻を見せてもらうことで、自分の中に火を灯してもらう。
私たちの目に見える現実は、嵐の中を過ぎていくようなものかも知れない、真っ暗闇の中を歩いているようなものかもしれない。しかしそんな冷たい風の中を歩む私たちを、神はその言葉を通して、幻を通して、私たちの心の中に火を灯してくれる。