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礼拝メッセージより
きっかけ
アラムはイスラエルの北の地方。異邦人の国。アラムの軍司令官ナアマン。彼は重い皮膚病を患っていた。彼の妻の召し使いにイスラエルから捕虜として連れてこられていた少女がいた。アラムはナアマンの活躍によって北イスラエルとの戦いに勝利して、捕虜を自国に連れて来ていたということなのだろう。この少女が、自分の国北イスラエルのサマリアにはエリシャという預言者がいて、彼のところに行けばご主人様の皮膚病も治してもらえるだろう、と語ったことからこの物語は始まる。
ナアマンはそのことをアラムの王に伝え、アラム王の手紙を持ってイスラエルの王に会いに行った。イスラエルの王はアラムから戦争をしかけてきたのではないかと勘違いした、なんていう話しも出てくる。その前の戦いで敗れて捕虜を取られていて、また無理難題を押しつけてそれを口実に攻めてこようとしていると思っても不思議ではない。
しかしそれを知った預言者であるエリシャが、自分のところへよこしてくれ、と言ってやっとナアマンは預言者のもとへとやってくる。
プライド
ところがエリシャはそのナアマンに対して、使いの者をやって、ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい、そうしたらあなたの身体は元通り清くなる、なんてことを言う。
そのことにナアマンは頭にきた。ナアマンのプライドがそれを許さなかった。そんな小さな川に行って7回も洗えだと、しかもエリシャ本人は来もしない。冗談じゃない、馬鹿にするのもいい加減にしろと思ったようだ。俺さまをどなたと心得る。天下のアラムの軍司令官ナアマン様である、ヨルダン川になど行かなくてもアラムにはもっと立派な川もある、というようなことを言った。
ナアマンは重い皮膚病を癒すには難しい治療か、難しいまじない、あるいは長い祈りが必要に違いないと思っていたんだろうと思う。それに反してエリシャの命令は「ヨルダン川に行って7度身を洗え」という、ナアマンにとっては思いもつかない命令で、しかも直接ではなく使いの者を通して伝言してきただけだった。まるで人をおちょくっているのか、と思わせるような命令だった。行為自体は子供でも簡単に実行できることだったが、ところがナアマンにとっては逆に難しい命令だったようだ。
ナアマンは家来たちになだめられやっとその言葉に従った。そしてそこで皮膚病が癒された。とても簡単なことをしただけで癒された。
決断
ナアマンはどうにか神の命令を行った。そして皮膚病が癒された。そのことを通して彼は主を信じるようになった。主こそ神であることを知った。そのことを喜んで贈り物をしようとした。エリシャが贈り物を受け取らないことを知ると、ならばということでそこの土をくれと頼んだ。アラムに帰ってから献げ物をするための場所を作るための土をくれということのようだ。自分はこれから主を信じていくと決断したのだろう。
しかし問題があった。彼は自分の主君がリモンの神殿でひれ伏す時の介添えをさせられるので、そこでリモンの神殿にひれ伏さねばならないということだった。自分の信じていない、神と思っていない神にひれ伏さねばならなくなる、ということだ。
エリシャは安心して行きなさいと言った。大丈夫だ、心配するなと言ったようだ。
変化
ナアマンはただ皮膚病を治すために来ただけだった。それが治ればそれで目的は達成できたはずだった。多くの贈り物をすることで皮膚病を治してもらおうとしてきた。しかし彼は皮膚病が癒されただけではなく、主を信じるようになった。
驚き
ネットを調べていると、バビロンに補囚されている民はこの物語をどのように聞いたのだろうか、と書いている人がいた。
イスラエルの人達にとっても、神は自分達の国を守ってくれる、自分達を勝たせてくれるものと思っていたんじゃないかと思う。神を信じることで、神に従うことで、神は自分達を守り戦いに勝利させてくれると思っていたんだろうと思う。ところが現実には戦いに負けてバビロンに補囚されてしまっているわけだ。少女が捕虜としてアラムに連れてこられていることと似ている状況なのだろう。そしてこともあろうに預言者を通して敵国の司令官を神が癒してしまう。そしてその司令官が自分達の神である主を信じるものになったという話しだ。
恐らくイスラエルの人達は神は自分達イスラエル人だけのもの、自分達だけの味方と思っていたんだろうと思う。でも異邦人であり、敵国の司令官を神が癒してしまうというのはとても衝撃的なことなのではないかと思う。
切り札を自分の手の内に持っていて、これを持っていれば安心、というような思いで神を持っていたのではないかと想像する。自分達だけが持てるものと思っていたんじゃないかと思う。
でもそうじゃなかった、神はイスラエル人だけのものではなかったわけだ。そして自分達の都合に合わせて、自分達のいいように使える道具でもなかったわけだ。
イスラエルの人達は神を自分達の都合のいいように便利に使える道具のように思ってしまっていたんじゃないかと思う。神はそんな道具じゃないぞ、ということを今日の物語は伝えているようにも思う。
私たちもどこか神をそんな自分の道具のように思ってしまっているのではないか。自分の願いを叶えてくれるかもしれない道具のように、自分の持ち物でもあるかのように持とうとしているのではないか。
でもどうやら神はそんなものではないらしい。私たちが持つことができるようなものではないらしい。むしろ逆に私たち自身が神の中に生きている、神に持たれているようなものなのだろう。
信仰を持つという言い方をよくするけれど、何となく自分達が持っている、握りしめているかのように錯覚しそうになる。握りしめていないとなくしてしまいそうに思ってしまう。でもそうじゃないように思う。逆に神から握りしめられているのだと思う。
過小評価
昔見たファーストミッションという映画を思い出した。ジャッキー・チェン演じる弟がサモ・ハン・キンポー演じる知的障害を持っている兄を助けながら一緒に生きているという映画だった(と思う)。
その映画の中の場面だと思うのだけど、ある時二人が港に行くと船が停泊していた。弟「大きいだろう」、兄「分からない、全部見えないから」、弟「見えない位大きいんだよ」というような会話があった。
神の大きさ、偉大さを私たちは全部を把握することはできない。把握できない位大きい。きっと私たちが思うよりも、もっともっと大きいのだろう。
神の愛の大きさも、きっと私たちの想像を遥かに超えて大きいのだろう。
あれをしていいのかいけないのか、これはしていいのかいけないのか、と縮こまることの多い私たちだ。しかし神は遥かに大きな愛で私たちを取り囲んでいるに違いないと思う。そして「安心して行きなさい」と言ってくれているのだと思う。
私たちの神は、私たちが握りしめていないと、離してしまうとどこかに行ってしまうような神ではなく、逆に私たちがどこにいても、どんな状態でも包み込んで離さない、そんな神なのだと思う。