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礼拝メッセージより
「煩わす者」 2011年1月9日
聖書:列王記上 18章16-24節
八百万の神
最近トレイの神さまっていう歌が流行っているらしい。
神はどこに?、どれが本当の神?いっぱい神がいるならそれぞれの神を拝めばいいじゃないか、それぞれに恵みをくれるならいろんな神からいっぱい貰った方がいいじゃないか、なんてことを思う。
これだけ、これこそが本物。何てことを言うからキリスト教は伸びない、何てことも聞く。確かにそうかもしれない。でも聞いていると神ということに対する考え方が随分違う気がする。日本での一般的な神と聖書の神はまるで違うようだ。日本の神々と聖書の神はどうも比べようがない気がする。日本で言う神々の中のひとつにキリストを加えることはできそうにもない。
昔読んだもののなかで、「神様というもんは、すべて人間の思いが作りだしたものなんです。人間が作ったものだから、人間の思う通りに動かすことができますがな。もし、この世界から人間が一人もいなくなってしまったら、どうなります?神様だっていなくなります」というのがあった。
聖書の語る神は天と地を創ったという神だ。全世界を作ったと言う神だ。人間がいてもいなくても存在する神だ。八百万の神とは全然違う。それなのに同じ神という言葉を使うのは何か変だなと思う。
干ばつ
イスラエルの国のアハブ王は先祖代々信じてきた神、聖書の神、主、ヤハウェを信じないで、外国の神であったバアルを信じるようになった。その時エリヤはアハブ王に対して「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」(17:1)と語った。あるいはそれはエリヤの勇み足だったかもしれないが、どうやらエリヤの言葉通りに干ばつになったようだ。そしてそれから3年目のことであった。
身を隠していたエリヤは再びアハブ王の前に姿を現すことになった。丁度、水を捜し求めていたアハブ王の宮廷長オバドヤと出会い、アハブ王にそのことを知らせてもらいエリヤとアハブ王は再会した。
お前が悪い
アハブ王はエリヤを見るなり、「お前か、イスラエルを煩わす者よ」と言った。お前が干ばつになると言ったからその通りになってしまった。国中が苦しんでいるのはお前のせいだ、ということだろう。
お前が悪いんだ、と言うのは世の常だ。何か大変なことが起こった時にはたいてい誰でもが、お前が悪い、あいつが悪い、先生が悪い、学校が悪い、社会が悪い、政府が悪い、運命が悪い、名前が悪い、先祖が悪いとか言う。教会が悪い、キリスト教が悪い、こんな風にした神が悪いなんてことをまず考える。
僕も登校拒否をしている最中はいろんな悪者を探した。学校が悪いだの文部省が悪いだの社会が悪いだのと。でもそうやって一生懸命に自分以外のところに悪者を探してところで何も変わらない。自分以外のものの悪いところ、おかしなところを探すのはなかなか楽しいし探しやすい。人の悪いところはすぐに見えてくる。でもそれを悪い悪いと言っていても何も変わらない。社会が悪い、と叫んでも社会はそんなに変わりはしない。そして自分自身は何も変わらない。
アハブ王は3年間ずっとエリヤのことを恨みつづけていたのだろうか。あいつが悪いんだ、と思いつづけてきたということだろうか。エリヤはアハブ王に対して、「「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」と言った。エリヤはイスラエルの神、主の名において干ばつを預言した。アハブは自分が主を礼拝しないでバアルやアシェラという神々を礼拝していた。そのために雨が降らないのかもしれない、とは全然思っていない。ただエリヤが悪い、あいつが変なことを言ったから、としか思っていない。お前が悪い、誰かが悪い、と思うことで、自分の間違いに気付かない。
決断
そこでエリヤはバアルの預言者450人と、アシェラの預言者400人とカルメル山という山で対決することを提案する。エリヤは集まった民に向かって、主が神であるなら主に従え、バアルが神であるならバアルに従え、と決断を求める。しかし民はひとことも答えなかった。どちらが本物の神であるかと問い掛けられたが民は答えられなかった。そこでエリヤは、雄牛を裂いて薪の上に載せ、神に火をつけてもらおう、火をもって答える神が本物の神であるはずだ、と提案する。
悔い改め
バアルの預言者は祭壇の周りを跳び回り、大声を張り上げ、身体を傷つけながら祈りつづけた。しかし何も起こらなかった。一方エリヤは先ず民を近くに来させて壊された主の祭壇を修復した。そして献げ物の上に水をかけ、祈った。「あなたが先祖から信じてきたまことの神であり、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが明らかになるように。私に答えてください。そうすれば民はあなたが神であり、彼らの心を元に返したのはあなたであることを知るでしょう。」確信を持って祈ったのだろうか。自分からこの対決を申し出た位なのでやっぱり確信があったのだろうか。
すると主の火が降って献げ物も薪も石も塵も水もなめつくした。
ここで民は「主こそ神です、主こそ神です」と言った。最初エリヤから、「もし主が神であるなら主に従え、もしバアルが神であるならバアルに従え」と言った時には何も答えなかった民だった。
この対決は実はこの民のためのものだったようだ。権力者の命令によって主を礼拝するのではなくバアルやアシェラを礼拝するようになっていた民に、真の神は誰なのかを示すための対決だったようだ。
21節でエリヤは民に、「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」と言った。その時民はひと言も答えなかった。
次に、エリヤが献げ物を用意して祈ろう、火をもって答える神こそ神だ、と提案した時には民は「それがいい」と言った。
そして、バアルの献げ物には火がつかず、主の献げ物に火がつくと、民は「主こそ神です。主こそ神です」と言った。
こんな民にはっきりと神を示すための対決だったのだろう。
煩わす者
まことの神を示すためには、煩わす者となるときもある。でもそんな煩わしいと言われる者が実は大切なのかもしれない。煩わしいと言われる位が丁度存在価値があるのかもしれない。
奇跡
でもこの奇跡はエリヤの力で行ったのではない。エリヤはすべて神の言うままに行ったと言う。そしてこの奇跡を行ったのは神である。エリヤは祈っただけだ。神の力なのだ
こんな風にはっきりと神の力を感じることができたらいいなと思う。火を送って下さいって祈ったら火が降ってくる、なんてことになったらいいのになと思う。神さまがそうやって何でも言うとおりやってくれたら良いのにと思う。そしたらお金が足りませんって祈ってお金をいっぱいもらって、頭をよくしてもらって、ハンサムにしてもらって、明るい人間にしてもらって、そして嫌いな人間をやっつけてもらうのに、なんて思う。もしそうなったら独裁者みたいになりそうだ。
神さまは必要な時にはきっと応えてくれるのだろうと思う。
民は多分これまで主が自分の先祖たちを導いて助けてくれてきたことは聞いていただろうと思う。でもそれはやはり話しとしてだったのだろう。
天と地を創ったと言う、人間も何もかも創ったと言うその神が生きている、しかも自分と関わりのない遠くにではなく自分のすぐそばにいる。そのことを民はこのとき知ったのではないかと思う。
新約聖書によるとこの神は私たちを愛していると言う。私たちを大事に思っていると言う。そしてイエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪も赦されているという。天地の創り主が私たちひとりひとりに目を注いでいると言うのだ。
この神は人間が創った神ではない。自分の思い通りにもいかない神だ。しかし私たちの全てを支えて下さっている神だ。すべてを支えることができる神だ。その神が私たちを愛し憐れんでくれているのだ。
祈ってもその通りにならないことも多いけれど、何でも願いどおりになることよりも、神さまに愛されている、大切に思われている、それこそが実は喜びなのではないかと思う。そんな神とのつながりを思い出させるための奇跡だったのではないかと思う。