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礼拝メッセージより
「恵み」 2011年1月2日
聖書:列王記上 17章1-7節
アハブの背信
16章の最後のところにアハブ王について書かれている。北王国イスラエルの7代目の王。紀元前869年に王になったと書いてあった。周辺諸国と同盟を結ぶなどして、大国アッシリアに対抗するなどし、国を大きくした。
そういう関係もあったのか、シドン人の王の娘イゼベルを妻に迎えて、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。バアルの神殿やアシェラ像を造り、それまでのどの王にもまして、主の怒りを招くことを行ったようだ。
その怒りの結果が干ばつであった。そしてそのことを告げるためにエリヤがアハブ王のところに遣わされている。
神の言葉
17章で突然エリヤが登場し、王であるアハブに、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」と語る。
エリヤがどういう人だったのか、王との関係はどうだったのかよく分からないけれど、自分が告げるまでは数年間雨が降らないなんて話しは王にとっては面白くない話しだっただろう。
それに続けて、主の言葉がエリヤに臨む。
17:3 「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。17:4 その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」
アハブ王に話しをした後、エリヤは神から身を隠すように言われる。逃げろ、ということか。干ばつを預言しその通りになることで、それを預言した主としてアハブ王から狙われるからということか。
聖書教育によると、ケリト側のほとりに逃げろと言われた時には主の言葉がエリヤに臨んだと書かれていて、その後8節でやもめのところに行くように言われた時にも主の言葉がエリヤに臨んだと書かれている。それなのに最初アハブ王に、数年間雨が降らないと言った時には何も書かれていないことから、これはエリヤの勇み足だったのじゃないかとも考えられるようだ。直接王に告げよ、とは言われていなかったのかもしれない。それでも神さまはエリヤを守ろうとしたということなのかもしれない。
エリヤは神の命令通りにヨルダン川の東のケリトの川のほとりに身を隠した。そこでは烏が朝晩パンと肉を運んで来たと書かれている。烏は宗教的に汚れた鳥とされていたそうだが、神はその烏を使ってエリヤを助けた。
ケリトの川の水を飲むように、と言うのが神の命令があったが、やがてその川の水も涸れた、という。
それはないんじゃないの、と思ってしまう。なぜだ、どうしてだ、神の命令に従ってやってきたのに、神がその川の水を飲めと言ったのにこれじゃ飲めないじゃないか、とエリアは言わなかったのだろうか。言ったかもしれないけれど。
神の使い
エリヤはケリトの川が涸れたあと、また別の神の言葉を聞く。エリヤは、ケリトの川の水を飲めと言ったんだから、といってそこに留まったまま川の水が戻るまでじっとしたままではなかった。そこでまた神の言葉を聞く。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」というものだった。そしてエリヤはその言葉に従いサレプタという町に向かい、そこで自分を養ってくれる人と出会う。
エリヤを養った女。それは一人のやもめであり、一食分の食料しか持っていない人だった。
エリヤを養うために、神の人の面倒を見るためにはまるでふさわしくない人のように思う。彼女は何も持っていない。金も食料もないようだ。そんな女がエリヤを、神の人を養う務めを任される事になった。やもめ自身も、自分には何もない、この最後のパンを食べた後は死ぬのを待つだけだ、なんて言っている。ほとんど死んでしまいそうな人間だ。半分死んだような生きる気力もほとんどないような人間だ。その人に神はエリヤの面倒を見るようにされた、エリヤのことをまかされた。
実行
やもめはエリヤから最初に、エリヤの為にパン菓子を作り、その後に自分と息子の分を作れと言われる。主なる神が、雨を降らせるまでは粉も油もなくならないといわれているからだ、と言われる。やもめはそれを実行した。最後に残った貴重な食料だったはず。死を前にする最後の晩餐のための食事だったはずだ。その食料をエリヤに差し出した。彼女はそのことから小麦粉も油も尽きない、ことを経験した。
彼女がどれほど神を信頼していたのか。どれほどエリヤの言葉に信頼していたのか。信仰深かったからできたのか。彼女の息子がその後死んだことがすぐ後に書かれている。その時にこのやもめはエリヤに文句を言った、あんたは息子を死なせるためにこんな所に来たのか、と言って。しかしその後息子を生き返らされる。その時になって彼女は「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」と答えた。この時になってやもめは初めて心から主の言葉が真実であることがわかったのだろう。ということはそれまでは信じられない部分がかなりあったということだ。しかしその信じられないような思いも抱えつつ彼女はエリヤの言葉に従っていったのだろう。そしてそこで奇跡を経験することになった、ということになる。やってみて本当に分かったということのようだ。
旧約聖書のマラキ書3:10には「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」とある。ここは献金しましょう、という時によく読まれるところ。
献金はただお金を献げるわけだけれども、ただそれだけではなく私たち自身を献げることでもある。私たちのすべてを神に献げる、そして献金はその徴でもある。どこかの教会の子ども礼拝で献金があって、一人の子どもがまわってくる献金袋の中に自分自身が入ろうとしたと聞いたことがある。献金とはまさにそのようなもののようだ。
献金は教会員の務めだからするというよりも、十分の一と書かれているからその通りにするするというよりも、総会でそうすると決めたからするというよりも、献金しないと教会がつぶれそうだから教会を守っていかないといけないからというよりも、このマラキ書で言われているように、神が天の窓を開き祝福を限りなく注ぐからするのではないだろうか。神が限りない祝福を注がれる、だからその祝福を経験するために献金するのかもしれない。神の恵みを経験するために献金するのではないか。最後の食料を与えたやもめも、そのことを通して神の声が真実であることを知っていった。神の声が真実で、その神が自分にも関わってくれていること、神が支えておられることを知ったのではないか。彼女は神の声に従い、最後の食料と言う大事な物をエリヤに差し出した。彼女はそれと引き換えに尽きない粉と尽きない油を手に入れた。しかしそれ以上にもっともっと大事なものを手に入れた。それは、神を知ったこと、神が真実であることを知り、神が自分のことに関わっておられることを知ったことだと思う。
恵み
神はいろんな形で恵みを与えられる。それがどういうかたちなのか私たちには分からないことが多い。恵みを与えてくださいと祈る。しかしその恵みは私たちの予定通りに、与えられるとは限らない。私たちの願い通りとは限らない。多くの場合私たちの願いどおりではない。しかし違った形で神は恵みを与えられることが多いような気がする。
また神さまは、烏ややもめを通してエリヤを助けたように、私たちを通していろいろなことをされようとしているのではないだろうか。私たちの出来る小さな何かを用いて神は何かをされようとしているのではないか。私たちの持っているわずかのものを用いて何かをされようとしているのではないか。それが何なのか、それを神に聞いて行きたいと思う。私たちを通して、私たちの献げものを通して神がそこに恵みを与えようとしておられるのではないか。そのことを通してさらに私たちが神を知り、神を信じ、その神を喜ぶものとなることを待っているのではないか。そんな神を経験すること、神の恵みを経験すること、それこそが献金の醍醐味なのではないか。
だからこそなおさら神の声に聞いていきたいと思う。どういう方法で神は私たちに語り掛けるのかよく分からない。多分人それぞれなんだろう。聖書を通して祈りを通して、あるいは誰かの声を通して神は私たちに語り掛けておられるのではないか。そして恵みを与えようとしておられるのではないか。私たち自身がその恵みを受け取る器なのではないだろうか。恵みがもらえないのは、受け取る器である自分自身を差し出していないからかもしれない。神さまは私たち自身の中に恵みをいっぱい与えようと待っているのではないかと思う。