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礼拝メッセージより
「憐れみの神」 2006年12月24日
聖書:ルカによる福音書 1章39-56節
突然の出来事
最近、14才の母というドラマをしている。詳しくはしらないけれど、14才で妊娠して子どもを産むという話しだ。最初は自分自身が驚いてどうしていいか分からなかった、でも産むと決めてからは家族からも反対され、ほんとんど誰からも理解されなかったようだ。後々家族は理解して協力してくれるようになるようだが、家族共々周りからは冷たい視線を浴び続けているようだ。
マリアが妊娠した時どうだったのだろうか。何歳だったのかよく分からないけれど、14才の母のようなことだったのかもしれない。期待された妊娠ではなかったようだ。マリアはヨセフと婚約していたようだが、マタイによる福音書によると、妊娠を知ったヨセフはマリアと離縁しようと考えたと書いている。ヨセフの子どもではない子をマリアは宿してしまった。ヨセフも大変だが、マリアはもっと大変なことだったろう。
1章26節以下の所では天使ガブリエルがマリアのところに来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。あなたは神から恵みをいただいた。」なんて言っているけれど、マリアの置かれた状況はとんでもなく大変な状況だった。
エリサベト
マリアは親類のエリサベトを訪問している。そして三ヶ月ほどそこにいた。
マリアは「お言葉どおり、この身になりますように」なんて言っているが、しかし実際マリアをとりまく状況はなにも変わっていない。ガブリエルが周りの者たちに説明して回ってくれるわけでもない。自分に起こった突然の思わぬ出来事を真理はこれから自分で受けとめて行かないといけない。受けとめていくしかない。
実はマリアはエリサベトのところへ逃げていたかもしれない。三ヶ月もいたのはそのためだったのではないか。自分と同じように初めて妊娠している人こそが、マリアが一番安心できる場所だったのではないかと想像する。この三ヶ月でマリアは覚悟を決めたのではないかと思う。ここにマリアの賛歌が出てくる。この賛歌をラテン語でマグニフィカトと言うそうだが、これはマリアの出来事を通しての教会の賛歌だ。
低く
神はいわゆる立派な人ではなく、卑しい者、無名の者、低い者を選ぼうとした、その結果としてマリアが選ばれたということになるのだろう。そしてこの賛歌では、マリアは自分のことを「身分の低い、主のはしため」だと言っている
人はなんとか周りの人から高く見られたい、良く思われたい、と思っているだろう。弱点を持っていることや、失敗すること、挫折することは恥だ、と思っている。その事で周りからの評価が下がってしまうことになると心配している。だから自分が失敗した時には一生懸命弁解したりする。自分が悪かった、自分が間違っていたということをなかなか認められない。自分が失敗したり挫折したり人を傷付けたりすることがある、ということをなかなか認められない。そうでない自分を願っているところがある。自分はそんなだらしない人間ではいけないんだ、そんな人間ではないはずだと思っている。だから失敗や挫折をすることは自分にとっては恥だと思う。そうことは何とか隠していたいと思う。
しかし人間が恥と思っているこれらのことを、神は恥とは思っていない。逆に神はそんな、見捨てられたような人間に注目している。そのようにしてマリアは選ばれた。そこにイエスは生まれた。
神がマリアを選んだということ。それは神がこの世のいやしい者と共に歩もうと決意したということだ。この「身分が低い」ということばは、卑しいとも訳される、価値がないとかいう意味の言葉。その身分が低い人間を神が選んだ。
最も小さい、最も価値のない者を神はあわれみによって偉大な者とし輝かしい者にする。
逆転
「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力あるものを、その座から引き下ろす」とある。
権力ある者とは誰のことか。「小さな権力者」と呼べる人がいる。小さな権力者は自分が権力を振るうことの出来る範囲内でその権力をふるう。そうなるとほとんどの人は小さな権力者と言うことができるように思う。兄弟の中で、家庭の中で、職場の中で、学校のなかで、何かのグループの中で、だれもが小さな権力者となっている、なりたがっている。人間は上に、上に立とうとする。そして他の人を支配しようとする。周りのものを自分の思い通りにさせたいと思う。
ところが神の考えは、これとは全く反対である。神はより低くなろうとし、卑しいものとなって自分のことを忘れ、目立たなくなろうとする。
私たちの生きている道を神への道にしようとするならば、それは高いところへ向かう道ではなく、全く卑しい、低い人々の所へ到る道でなければならない。そうしないと神に出会うことができなくなる。
自分の足元に神がいるのに、天を見上げて神よ神よと言っているようなものだ。すぐ足元にプレゼントがあるのに、いつまでも天から降っているのを待っているようなものだ。
クリスマスは神がこの世の大転換を始める時である。権力者を神がそのいすから突き落とすのである。これは人ごとではない。そんなことを聞くと、これは自分とは関係のない所で起こっていると思う。しかしその者を神は突き落とす。小さな権力者を突き落とす。クリスマスは私自身の転換を始める時でもある。
クリスマスは神がどこに向っているのか、そして自分自身がどこに向って生きているのかを本気で考えなければいけない時。それを抜きにして、ただ感傷的にクリスマスに酔っていても何も始まらない。そこではイエスに会うことはできないだろう。
人から一番嫌われる女性は、美人だがお高く止まっているタイプと聞いたことがある。美人だがお高くとまっているものは鼻持ちならない。優れたものを持っていてもそのことを自慢に思っていない人はみんなから好かれる。しかしそのことを自慢に思い鼻にかけているものは嫌われる。自慢している本人にとってはいい気分だろうが、回りの者にとってはうっとうしいだけ。
しかし人はお高くとまっていたい。教会だけが本当のクリスマスと声高に叫んでみてもそれはただお高くとまっているだけのことかもしれない。ばかやろうお前ら本当のクリスマスも知らないくせになにやってんだ、と叫んだとしても空しい。それを聞いた人達は、何を偉そうに言っているんだと思うだけだろう。
上に立って、そこから下の者に向かって言う言葉は、・・すべき、・・はずだ、あるいは一体何をやっているんだ、そんなことではだめじゃないか。・・しなさい。
苦しんでいる時、悩んでいるとき、頑張れ頑張れと言われても余計につらくなる。ある本によるとなかなか治らない病気の子を持つお母さんがいやだったことばが頑張れということばだった、そうだ。
苦しんでいる時に、いかにも高いところからああだこうだと言われても心の中には入ってこない。ある人が亡くなった時、いろんな人が様々な言葉で遺族を慰めようとした。「早く元気だしなさいよ」とか、「いつまでも悲しんでいてもどうしようもないよ」とかかな。けれども一番慰めになったのは、何も言わず遺体の前で泣いている人の姿だったそうだ。
悲しんでいる人に向かって、元気になれない人に向って、上の方から元気になれ元気になれといってもそれは仕打ち、裁きでしかない。早くこっちまで上がってきなさい、そら早く早くと言ったところでそれで相手が元気になるなんてことはない。多分余計苦しくなってしまうだろう。相手の悲しみや苦しみの分からないところからいくら大声をあげても相手には届かない。悲しんでいる人、苦しんでいる人と同じ高さに行かないと声は届かない。気持ちは通じない。慰めにはならない。
イエスは低いところに生まれた。いやしいマリアのところに生まれた。そしてどこまでも低いものと共にいようとした。十字架につけられるまで、低い者と共にいた。何の取り柄もないような、なんの価値もないような、罪にまみれている者と共にいた。そんな小さい者のことに神はいつも目を注いでいる。
マリアのその後の人生が何もかも思い通りに行ったわけではないだろう。現にマリアにとってはとんでもない重荷を背負わされた状況はなにも変わってはいない。考えれば切りがないような不安も心配も残っているままだ。マリアがその後、立派な高貴な女性になれるわけでもない。社会的な成功を約束されたわけでもない。しかしそんなところにも幸いがあるというのだ。
幸せとは、不安や心配がなくなることではなく、自分のことを心配してくれている方がいるということを知ること、神が自分のことを心配しているということを知ることのようだ。
神は元気のないものに、元気がなくてもいいんだよ、と言われているんではないか。落ち込んでる者に向って落ち込んでていいんだよ、と言われているのではないか。きっと神は、元気がなくても落ち込んでいてもあなたを私は決して見捨てはしない、あなたといつも共にいるんだ、と言われている。
そして神はそんな風に私たちを憐れんでくれている。そしてその憐れみを忘れることはない、と約束しておられる。神は私たち一人一人のことを憐れみ続けると言われるのだ。
神を信じるということは、この神にお任せすることだ。今後は宜しくお願いします。と言うことだ。もちろん人間はひとりで生きていくことはできない。いのちは神によって与えられ神によって守られている。それを知らないで今まで生きてきたけれども、今そのことを知りました、また今後とも宜しくお願いします、というのが神を信じると言うことなのではないか。
神を信じるということは、信仰を与えられるということは、今の社会ではハンディを背負うことかもしれない。いろいろな葛藤を生むことにもなる。お前教会なんかに行っているのかと言われるかもしれない。みんなと同じことをしていれば何も摩擦はない。
マリアにとっても自分の妊娠は迷惑なことであったろう。何も自分でなくてもと思ったのではないか。ところが不思議なことにそれを通して、迷惑だと思うようなことを通して神の計画を、神の働きを垣間見ることができたのだろう。神のみ手を感じることができたのだろう。そしてそのことが彼女にとってとても嬉しい幸いなことだったのだろう。
神はそんな、神の業を迷惑だと思うような人間にさいわいを与えて下さる。「私は幸いだ」と言わせてくださる。人間の様々な状況がある中で、その大変さを包み込んで、それでも私はしあわせだという、そんなしあわせを神は私たちに用意してくださった。
幸せとは何なのか。何がどうあることが幸せなのか。実は幸せとは、神が憐れんでいてくれているというところにあるのではないか。自分に何が出来るかとか出来ないとか、何を持っているとか持っていないとかいうこことは問題ではなく、神に憐れみを受けていること、そこに一番の幸せが隠れているのではないかと思う。