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礼拝メッセージより
「傷」 2006年12月17日
聖書:ヨハネによる福音書 21章15-19節
ペトロ
ペトロは熱血漢だったような気がする。
マルコによる福音書14章27節以下を見ると、 14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。 14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。 14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。 」と書かれている。
威勢よく、絶対躓かない、知らないとは言わないと言っていたペトロだった。
マルコによる福音書14章66節以下では、捕らえられたイエスの様子を見に行ったペトロのことが書かれている。
14:66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、 14:67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」 14:68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。 14:69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。 14:70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」 14:71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。 14:72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
威勢のよかったペトロだったが、イエスを知らないと言ってしまう。それも3回も。イエスといた時には裏切らない自信があったのだろうが、頼みのイエスが捕まってしまい、ただならぬ雰囲気の中でついつい知らないと言ってしまったのではないかと思う。
イエスは十字架につけられ処刑されてしまう。
愛す
しかしイエスは復活し再び弟子たちに出会った。ある朝イエスは漁をした弟子たちに食事の用意をして弟子たちが食べた。
食事の後でイエスはペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛するか」と問い掛ける。何でそんなことを聞くのだろうか。しかも他の弟子たち以上に私を愛するかなんて。
ペトロはイエスのことを決して知らないとは言わないと大見得を切った。なのに知らないと言ってしまったという傷を持っている。その裏切ってしまった当人から愛するかなんて聞かれるということはとてもつらいことだったのではないかと思う。そのことは赦してやると言われたなら少しは安心できるような気がするけど、そうではなく他の弟子たち以上にわたしを愛するかなんて聞かれても困ってしまうのではないかと思う。聞かれたペトロも困ったかもしれない。
赦し
ペトロは、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えた。ちょっと不思議な答えだ。だとするとイエスは自分が知っていることをあえてペトロに聞いたということなんだろうか。しかも3回も。
ルカによる福音書7章36節以下に罪深い女性がイエスに香油を塗った話しが出ている。7:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。 7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。 7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。 7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。 7:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。 7:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 7:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。 7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
ペトロがイエスを知らないと言ったことはペトロにとっては大きな深い傷だったろうと思う。誰よりも威勢よく裏切らないと言っていただけに、裏切ってしまったという傷も誰よりも深かったことだろう。そしてその深い傷を赦されれば、そのことによる愛はまた誰よりも大きかったことだろう。
イエスがペトロに、この人たち以上にわたしを愛するかと聞いたのは、あなたの心の傷は誰よりも大きいことをわたしは知っている、だから誰よりも大きな赦しがあなたには必要なのだ、その赦しをわたしはあなたに与えた、あなたはそれを受け取っているか、ということを言いたかったのではないかと思う。そして赦した者と赦された者という関係以上に、これからは愛し合う者という関係になるのだ、あなたをそのことを分かっているかと聞いたのではないかと思う。
しかもご丁寧に3回も言ったということは、3回知らなかったと言ったという三つの傷をひとつずつ手当てをするように繰り返したのではないかと思う。
ペトロは、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです、と答えた。もちろん愛してます、と以前なら言いそうなところだがこの時はそんな偉そうなことは言えなかったようだ。自分の師匠を3回も知らないと言ってしまったというショックはそれほど大きかったのだろう。そのことでペトロは打ちのめされていた。そしてイエスの、わたしを愛するかという問いにも、そんなことなぜ聞くのか、聞かないでくれ、そんなことはあなたの方がよく知っているでしょう、という気持ちだったように思う。
赦し
イエスはペトロにお前を赦すということは直接言っていない。しかしペトロに大切な務めを託す。わたしの小羊を飼いなさい、わたしの羊の世話をしなさい、と。これも3度言った。
イエスはペトロがイエスを知らないと言ったことを責めてはいない。そのことを赦すということも言わない。しかしもうすでに赦している。完全に赦している。赦すだけではなく大事な務めを託した。
あたかも何もなかったかのように。イエスを知らないと言ったことなど一度もなかったかのように。イエスを見捨てて逃げたことなどなかったかのように。
しかしペトロはどうだったんだろうか。イエスは全てを赦している、しかしペトロの方はどうだったのだろうか。イエスを知らないことを3度も言ったことはペトロにとって大きな傷になっていたに違いない。決して忘れられない、簡単にぬぐえない気持ちだったに違いない。もしそんな気持ちを持ったままだと、大きな傷を治療せずにそのまま放っておくようなものだ。動くたびに痛くなって十分に動けなってしまう。心のブレーキをはずす方法とかいう本が今よく売れているそうだが、動こうとするたびに痛みがあればそれはすごいブレーキになる。
ペトロの心の傷を治療したのが、イエスのわたしを愛するかという質問だったのではないか。イエスに愛されていることを知ること、自分にとって一番のわだかまりとなっていたことを赦されていることを知ること、ただ単に罰を与えられなかったというようなことではなく、愛する関係になった、そのことがペトロのその後の生きる力となっていったのだろう。
従いなさい
ただ単に赦してやる、と言われることとは比べ物にならないようなことがここで起きているようだ。イエスはペトロに、わたしの羊を飼いなさい、養いなさいという。赦されて愛される、そこからイエスは務めを託す。奉仕をするようにという。そしてそれは行きたくないところへ連れて行かれることでもあるというのだ。会いたくないような人に会うことであったり、したくないような奉仕をすることでもあるということだろう。イエスに従うということは、自分の望み通りになることばかりではないのだ。しかしイエスに従うことこそが神の栄光を現すことだというのだ。
私たちはもう赦され愛されている。私たちに対してもイエスは、わたしの羊を飼いなさい、と言われているのではないか。私たちも心にいろんなブレーキをかける。古傷が痛むようなこともある。その傷はわたしが治療する、だからわたしに従いなさい、イエスはそう言われているのではないか。その道こそが神の栄光を現す希望の道、そして喜びの道なのだ。受けるより与える方が幸いであるように、奉仕されるより奉仕する方が喜びなのかもしれない。その喜びを経験しなさい、とイエスは招かれているのかもしれない。