前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「目的地」 2006年12月10日
聖書:ヘブライ人への手紙 11章1-16節
アベル
神はアベルの献げ物の方を認めた。理由は書かれていない。
エノク
どういう人なのかよくわからない。創世記にはアブラハムの孫として書かれているらしいが。
ノア
箱舟を造った人。造らされた人。周りの者に馬鹿にされても神の言葉に従った。
アブラハム
神の命令された地へ行くようにと命じられて75歳で従った人。行く先も知らずに行った。神の約束は、「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」というものだった。しかし75歳で見知らぬ土地に移るというのは大変なことだっただろう。
サラは高齢になってから子どもを産んだ。
信仰によって
彼らは信仰によってそうしたと書かれている。彼らには信仰があったという。では信仰とは何だったのか。
信仰とは、「強い信念を固く持って、どこまでも曲げずに貫き通す」(聖書教育)というイメージがある。つまり自分の中に固いものを持つことが信仰であるというイメージがある。自分の中に固い確かなものを持ち続けることが大切であると考えがち。
でも創世記読むと、そこに登場する人たちが、いつもいつも私は神の言葉に従いますって固い信念を持って従っていたわけではないようだ。アブラハムは黙って命令に従っているわけではなかった。
サラは高齢になって子どもが産まれると天使に言われた時に笑ったなんてことが書かれている。そして笑ったとか笑わないとか言って問答したなんてことも書かれている。
彼らに疑いがまったくないとかいうわけではないようだ。言われたら即実行というわけでもないようだ。言われたらそのまますぐ実行ということになると、それままるでロボットみたいなものだ。
彼らは神の言葉を聞いてロボットみたいに従ったのではなく、そういうこともあっただろうけど、それよりも本当だろうか、大丈夫なんだろうか、そんなことできないよ、って悩んだり苦しんだりしたことが多かったんではないかと思う。なかなか信じられなかった。
サラが高齢になってから子どもを産むと言われた時にはアブラハムも笑ったと書かれている。
イサクを献げよなんて言われて相当悩んだだろう。
信仰
信仰によって、とヘブル人への手紙には書かれている。それは彼らの固い信念によってということではないだろう。彼らはいつも揺れている。神の言葉を聞いて余計に揺らされているかのようだ。
しかし揺れながら彼らは神に従った。自分達の信念に従うのではなく、神に従った。自分達が神という言わば固い土台の上に生きているということを信じてきた。
アブラハムが神の約束を聞いてカナン地方へ初めて着いた時、アブラハムはベテルというところに主のための祭壇を造り主の御名を呼んだ、と書いている。そこには当然原住民がいた。神の約束された土地ではあるけれど、そこの人たちはもちろんアブラハムがやってくることを待ってくれていたわけではない。きっと不安だらけだったのだろう。だからこそ彼は祭壇を造って主の御名を呼んだのだろう。一所懸命に祈ったのだろう。祈らずにはいられなかったのではないかと思う。神の命令に従って来ているけれども、神の計画なのだろうけれども、見える確証は何もなかった。自分の中にも自身も確信もなかったのだろう。だから祈るしかなかったに違いない。しかしそれこそが信仰なのだろうと思う。
固い土台である神に支えられていることを信じること、それが信仰だ。自分の中に固い揺るがないものを持つことよりも、きっとそんなことできないと思うが、それよりも固い揺るがない神に繋がって生きること、それが信仰だ。
そこでは悩むこともきっとある。信仰があるからこそ悩むこともきっとあるのだろう。アブラハムのように神の言葉を聞くことで、従うことで大変な苦労をすることもあるかもしれない。しかしそんなことを通して神は私たちを神の国へと導いているのだろう。私たちには見えないけれども神の計画の中に生かされていく、それが信仰なのだろう。神はその見えない計画に沿って私たちを最終目的地へと導いてくれているのだろう。