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礼拝メッセージより
「失望しない」 2006年12月3日
聖書:ローマの信徒への手紙 10章1-13節
熱心さ
「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」彼らとはすぐ前のところを読むとユダヤ人のことだ。パウロ自身ユダヤ人である。ユダヤ人としてかつてはキリスト教を迫害していた。
ユダヤ人たちは神の命令に従って、命令通りに自分が行動することで神に近づくのだと思っていたようだ。つまりいい行いをして、よいことを多くして、徳を積む、それが神に近づく、神に従う方法だと思っていた。
しかしユダヤ人たちが決していい加減だったのではない。彼らはとても熱心だったのだ。熱心だったことをパウロも認めている。パウロ自身、以前は熱心なバリバリのユダヤ教徒だったのだろう。
しかし、その熱心さは正しい認識に基づいていなかったという。
熱心であればいいというものでもない。日本ではいわしの頭も信心から、というように、とにかく熱心に信じること、が大事だと言われる。
つまり信じる人間側が問題である、というのだ。人間側の態度というか、人間側の努力が問題、どれほど努力しているか、どれほど信心しているかが問題だ、というのだ。信じる心こそが問題で、神は二の次、神がどんなものか、信じているものがどんなものだろうとそんなものは関係ない、と言うことになる。たとえ鰯の頭でもいい、と言うことになっている。
もちろんユダヤ人たちにとっては神はどうでもいい、ということではなかっただろう。かつて先祖たちに語りかけ、奴隷をしていたエジプトから救い出してくれた神なのだ。神というものが結構はっきりしている。しかしそのユダヤ人たちでさえ正しい認識をもっていなかった、というのだ。
彼等は自分たちが正しい行いをすることで、神との関係を持ち続けることが出来ると考えた。神の命令に忠実に従うことにおいて初めて神との関係を正常に持つことが出来ると考えた。そして自分達は正しいのだと思っていたのだろう。
自分の義
彼らは自分たちは正しいことをしているんだという意識を持ち過ぎたのではないか。自分が正しいかどうか、そのことに固執し過ぎたのかも。神との関係、神と繋がっているかどうかが問題であったのに、神とどうつながるかということよりも、自分の正しさを求めるようになってしまったのかもしれない。
神と人間との関係はどうなのだろうか。私たちもえてして、人間が神に一所懸命にすがりついていなければ神から離れてしまうようなイメージを持っているのではないか。こちらが手を離すとどんどん遠ざかっていってしまうような。だから神に繋がっているには片時も手を離してはいけない。
そうだとすると、人間が手を離した時、掴む力がなくなった時、神はどこか遠くへ行ってしまう。
あるいは人が一所懸命に神の機嫌をとっていないと神が振り向いてくれないなんて思ったり。神の言うとおり一所懸命に神に従うことで初めて神が振り向いてくれるかのように思ったり。
ユダヤ人たちはそうやって一所懸命に神の機嫌を取ろうとしてきたのではないか、神から離れないように一所懸命に神を掴もうとしてきたのではないか。離れていきそうな恋人を必死に引き留めようとするかのような、そんな感じかも。
神がそっぽを向いて私たちから離れたがっているとしたら、確かに私たちは必死で神に離れないように神の裾でも何でも握りしめていないといけない。
しかし神は私たちの方を見つめている。私たちのことを愛してくれているというのだ。実は神の方が人間を捕まえていたのだ。神の方が人間を抱えかかえていたのだ。神は必死に捕まえていないとどこかへいってしまうようなものではなく、神の方が人間を捜し出して抱いてくれていたのだ。
しかし、神が人間を包み込んでいる、とすると、人間側に何をする力もないときにも、神の手をつかむ力がないときにも神の手の中にある、ということだ。
時として神から遠く離れているように思う時がある。神を求める力もない時がある。祈れない時もある。そんな時神から離れ、神に見捨てられているように思う。神に捨てられてひとりぼっちのような気分。しかしそれはユダヤ人たちの間違った考えと同じ考え方。人間が神をつかんで神から離れてしまうという考え方だ。しかし神が人間を、私たちをつかまえておられるなら、人間に力がない時でもひとりぼっちではない。そんな時も神の手の中にあるのだ。
ユダヤ人たちが一番分かっていなかったのはそこだったのかもしれない。神が自分達のことをどのように思っているかを分かっていなかった。そのために嫌われないように、置いて行かれないように神を必死に握りしめようとしていたのではないか。そしてその自分の握りしめる力を頼りにしていたのだろう。それが3節でいう、自分の義を求めようとして、神に義に従わなかった、ということなんだろうと思う。自分の力を求めて神の力を信用しなかったということでもあるのだろう。
10:4 キリストは律法の目標
この「目標」は本来、終わり、終点、完成という意味の言葉。
キリストは律法に終止符を打たれた、ということなのだ。律法を守ることで神に愛されるという考え方はもう終わったということだろう。
本来律法は、恵みを与えてくれた神に対して、イスラエルがどのように答えるべきかを示したもの。神の恵みが先ずあって、人間の応答としての律法がつづくのである。
そもそも律法とは、それを守ることによって神から恵みが与えられるというようなものではなかったのだ。律法主義者たちは、律法を守って初めて恵みが与えられる、律法を守ることで初めて神との関係を持つことが出来る、と解釈してしまった。しかし実はそうではない、聖書自身は、律法自身もそうではないと言っているじゃないか、とパウロは言う。
『だれが天に上るか』も『だれが底無しのふちに下るか』も申命記30章11-14節にある。
30:11 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。
30:12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
30:13 海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。
30:14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
ローマの信徒への手紙の「底無しのふち」は申命記では「海」となっている。旧約では海は地獄の代名詞のようなもの。
ここではキリストを引き降ろすとか、引き上げるとか言う話しになっていて何が言いたいのか余計にわかりにくいが、申命記を見ると、戒めはどこにあるか、という問いに対する答えになっている。つまりみ言葉はどこにあるのか、という質問に対して、天に昇っていかなくても、海に潜っていかなくても、あなたの近くにある、あなたの口、あなたの心にある、と言っている。
戒めは、み言葉はいったいどこにあるのか、という者に対して、それはあなたの近くにある、既に口に、心にあるという。
いいものがあれば、それを欲しいと思う。そんなにいいものならそれを信じたいという。それはどこにあるのか、と言うものに対して、それはもう既にあなたの近くにある、という。青い鳥の話しみたい。幸福は実は自分のすぐ側にある。
神の言葉はどこにあるか、実はすぐそばにある、神の手はどこにあるか、実はもう私たちの周りにあって私たちを抱きかかえているということだ。
救いは私たちのところに来ている、私たちはただ信じ告白するだけなのだ。
告白したら神に抱きかかえられるからするのではない。神に抱きかかえられているから告白するのだ。