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礼拝メッセージより
「キリストと共に」 2006年11月12日
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 2章15-21節
神の内
いろんな式典に行くと不思議な光景に出会うことがある。学校の入学式や卒業式なんかでもそうだが、よくステージに上がる時にステージの真ん中に向かって礼をする人がいる。そこに誰もいないのに。あれは何なのだろうとかねがね思っている。一体誰に向かって礼をしているのだろうと。
最近ホテルの結婚式の時にも、正面が教会の講壇のように少し高くなっていて、そこの奥の台に結婚指輪を置いておくのだが、その指輪を式の直前に置きに行く時に、ホテルの係りの人が壇に登る時と降りる時に礼をする。でも牧師は全然礼をしないで壇に登っている。
神社に行くと社の奥に神さんがいると聞いていた。だからそこに向かって手を叩いていた。手を叩くのは、私はここにいますよと知らせるためだと聞いたことがあるけど本当だろうか。神社のかみさんは社の奥にいるらしいけれども、聖書の神は一体どこにいるのか。
聖書にはどう書いているか。使徒言行録の中にこんなことが書いてある。これはパウロがアテネに言った時の話し。
17:22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。
17:23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
17:24 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
17:25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。
17:26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
17:27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
17:28 皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。
神は天地の主なのだから、どこかにいるというようなものではなく、反対に私たちの方が神の中に生きているのだというわけだ。
わたしの内
でもガラテヤの手紙でパウロは、「2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」と言う。
使徒言行録では私たちが神の中に生きていると言って、ガラテヤではキリストがわたしの内に生きておられるという。どっちなんだろうと思っていた。結局は私たちは、水の中にスポンジを入れた時にスポンジの周りは全部水であるし、スポンジの中にまで水が染みこんでいる、そんな状態なのかな。
しかしキリストがわたしの内に生きているというのはすごいことだ。パウロは、生きているのはもはやわたしではない、なんて言っている。まるでキリストに取りつかれてしまったかのような言い方だ。しかしこれはもちろんい自分の体を乗っ取られるようなこととは違うだろう。自分というものがなくなるとか支配されるとかいうことではないが、自分の中にキリストという種というか核というか力の源のようなものが与えられるようなものなのだろう。
キリストがわたしの内に生きることで自分がなくなるわけではない。自分は元のままある。罪も汚れもそのままある。しかしそんな自分の中に種のようにキリストが生きているということだ。
パウロは他の手紙の中でこんなことを書いている。
コリントの信徒への手紙二
12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
ここではキリストの力がわたしの内に宿るように自分の弱さを誇るという。キリストが私の内に生きるということは、私が全く別人になる、罪も汚れもないない人間になったり、強い完璧な人間になることではないようだ。別人になるのではなく、今の自分を真っ正面から受けとめて生きる人間になることのようだ。自分の弱さや苦しみを受けとめていく人間になることなのだろう。キリストがわたしの内に生きるということは、そんな風に自分自身をしっかりと受けとめていく力を持って生きるということだろう。そしてそんな力をキリストは私たちに与えてくれるのだ。
私たちは自分を嫌うことが多いのではないかと思う。もちろん人から嫌われることはいやだけれど、結構自分自身を嫌っているのではないか。もっと良いスタイルだったら、もっといい性格だったら、もっと元気だったら、、、。自分を嫌っている面がすごくいっぱいあるのではないか。でもキリストはそんな私たちを受けとめてくれている。自分でも嫌っている面をいっぱい持っている、こんな自分を大切だと言ってくれている、愛してくれている。この私のために命を投げ出してくれた。
罪も汚れもキリストは全部引き受けてくれた。そして今もそんな私たちを支えてくれているのだ。私の内に生きて私のすべてを支えてくれている。私たちの内側から、中心から私たちを支えてくれている。私たちをそのままに徹底的に愛してくれている、私たちの神はそんな神なのだ。
ヨハネの手紙一
4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
4:13 神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。
4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
4:15 イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。
4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
私たちの内に生きるキリストの力はなにより愛する力だ。キリストは私の内に生きて、私を愛して愛して愛し尽くしてくれている。愛する力を私たちに与え続けていてくれる。