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礼拝メッセージより
「神の義」 2006年11月5日
聖書:ローマの信徒への手紙 3章21-26節
人間って
この前ホテル・ルワンダという映画を見に行った。随分前にテレビでツチ族をフツ族の間で虐殺があったというのを見たことがあった。少し前までは隣り同士で仲良く暮らしていたのに、突然ツチ族をやっつけろという雰囲気になってきて虐殺が起きたという話しだった。映画はそんな時にベルギー系のホテルに1000人以上の人が非難してきて、そこの支配人が必死でその人たちを守ったというような話しだった。
昔テレビで見た時は一体何が起きたのかよく分からなかったけれど、映画を見て少し分かってきた。そもそもツチ族とかフツ族とかいう分け方も、ヨーロッパ人が勝手に決めたようなものだったそうだ。要するに支配しやすいようにするためだったのだろう。支配者はよくそういうことをするらしい。民衆の身分を分けて敵対させておいた方が、一致団結して支配者に逆らう心配が少ないらしい。
とにかくそんな虐殺が起きて来た時に、国連や他の国は見て見ぬふりをしていたそうだ。状況は知っているのにしばらく手を出さなかったらしい。そんな中でひどい虐殺が起こった。
その映画を見ながら、人間って何て醜い生き物なんだろうかなんて思った。人間止めたい気分にもなった。アフリカの国はずっと外国に力で支配されてきて、最近は独立してきたけれど、力を持つ者や武器を持つ者が弱い者を支配しているようだ。いろんな戦いが今でも起きているらしい。あまり報道されることもないけど。
人間ってそんな殺し合う生き物なのかもしれない。そんな要素を誰もが持っているのかも。聖書は人間は誰もが罪人であるというけれど、まさにその通りという気がする。時として人は、神をも恐れない、人を愛さない者となってしまうようだ。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(23節)と書いてある通りなのだろう。人間の奥底を見せられたような気がしてとても重い映画だった。
そしてローマの信徒への手紙の前半には、そんな神の命令に従えない人の有り様が書いている。
ところが
結局は正しい者はいない、という何とも悲しい話。そして誰もが神の裁きを受けなければならない、どうしようもない人間の実体が語られていた。
結局人間にはどうしたって赦される道はない。罪の裁きから逃れる手段を人間は持ってはいない。神との正常な関係を取り戻す手段を持っていない、のだ。人間は、義である正しい神にとっては似つかわしくない者、なのだ。捨てられてしまっても仕方がない。あるいはそうした方がいいような者なのだ。
人間は神から律法を与えられた。それによって義とされる、神に従う正しい道を教えてもらった。ところが現実には律法によって、それを守れない人間、罪を持っている人間というものが却ってはっきりとした。
律法を与えられている、と自慢していた、またほかの民を差別していたユダヤ人も、結局はほかの民と何ら変わらない罪人であったのだ。
何の望みもない、何の希望もない。神と罪人である人間は神との関係を絶たれて暗闇をさまようしかない。
人間にはもう絶望しかない。何ともくらい話。考えれば考えるほど暗くなるような話。そして実際もうどうすることも出来なくなっていた。
ところがここから話は変わる。「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて神の義が示されました。」(21節)
律法と預言者とは旧約聖書のこと。ついでに言うと旧約のことを律法、預言者、諸書、と言う。旧約聖書によって証されていた、律法とは別の神の義が示された、と言うのだ。
それはイエス・キリストによる贖いの業を通して現されるのだという。
そしてそれはイエス・キリストを信じる信仰によって信じる者に与えられるものであるというのだ。絶望しかない、真っ暗闇でしかない人間の世界に光が射してきた、というのだ。
義
神の義は神から与えられる義。それは神の恵みによるのだ、という。つまり人間の側には何もない。神から与えられたから義とされる。だから何の差別もない。
「ただイエス・キリストの贖いを通して、神の恵みにより無償で義とされるの」だ。(24節)
「無償」ということは人間はお金を払っていない、ということ。それと引き替えにはなにも出していないということ。ただもらうだけ。もらう理由もないのにもらうのだ。よく言いつけを守ったご褒美にもらうのでもない。それに見合うものは人間にはなにもない。なのにもらう。だから無償なのだ。恵みなのだ。
「贖い」とはもともと奴隷を賠償金を払って買い戻すこと。罪の奴隷となっている人間を買い戻した。神はキリストを罪を償うための供え物とした。と書いてある。
イエス・キリストは命をかけて私たちの命を償った。命を救うためには命の償いが必要だった。
何でそんなことをしなければいけなかったのかというと、神の義を示すためだった、というのだ。義とは正しさのことで、義を示すということは正しさを主張することのように聞こえる。人間だとそうだろう。俺は正しいんだ、という時は、おまえは間違っているとなる。あんたのそこは間違っている、それじゃまずいよと指摘することで私たちは自分の正しさを主張する。人間が自分の義を示す時というのは、俺はこんなに正しいのだ、お前達はこんなに間違っている、ということになる。つまり自分の間違いをなくしてが間違ってない側に立つことが自分の正しさを示すことになる。
しかし神の義は、神の正しさはそうではない。神の義はイエスを罰するのだ。罪人である人間を罰しないで罪のないイエスを罰したのだ。それが神の義、神の正しさだというのだ。
本来その罪は罪人であるものが罰を受けるはずであった。しかし神はイエス・キリストを罰した。それが神の義だというのだ。つまり間違いも罪を全部抱え込んで相手を愛してゆく、徹底的に赦していく、それが神の正しさなのだ。
私はこんなに駄目だ。こんなに罪深いと思うかもしれない。神の正しさに比べて自分はこんなに間違いだらけだと思う。こんな間違いだらけでは、つみだらけでは神に見捨てられる、神から離れてしまうと思うのではないか。しかし神はそうはしない。そんな間違いだらけな、罪だらけな私たちを神は抱え込んでくれるのだ。しかしそんな間違いらだけの、罪深い私たちのためにイエスを罰すること、そしてこんな私たちを赦すこと、それが神の義、神の正しさだというのだ。都合の悪い奴を捨てるのではなく徹底的に拾っていく、それが神の義なのだ。