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礼拝メッセージより
「びっくり仰天の恵み」 2006年11月19日
聖書:エフェソの信徒への手紙 2章1-10節
生まれる前から
子ども達の通っていた幼稚園で、誕生会の時には♪生まれる前から神さまに、守られてきた○○ちゃんのの誕生日です。おめでとう!!♪という歌を歌っていた。
でも生まれる前はどこにいたのだろうか。
エフェソの信徒への手紙1:4では「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」と書かれている。天地創造の前って生まれるよりどれくらい前なんだろうか、なんて思ってしまう。そして続いて5節以下では「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」というのだ。
恵み
続いて、わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように、と語る。
恵み、それは賜物、神からの贈り物である。人間の努力によって造り出すことのできないものである。あるいはまた人間が働きに応じて与えられる報酬でもない。神さまのためにこんなにいっぱい働きました。だからこれこれをしてください、というものとは違う。恵みは神から一方的に与えられるものである。それを貰うにふさわしくない、罪に満ちていて、間違ってばかりいる、神の命令にそむいてばかりいる、なのに与えられる、それが恵みである。こんなもの貰う覚えはない、貰う資格もない、なのに与えられるそれが恵みだ。
親は子どもに対して、言うことを聞いてくれたらこれをお菓子をやるなんてことをする。いろんな人間関係でも、相手が自分の望むことをしてくれたらその人に親切にする。この仕事をしたらこれだけの給料を払う。きっとそんなことがほとんどだろう。こちらの条件に向こうが合えば、その人を大事にする。
けれども神の恵みは人間がどうであるかということを問わないで、そんな人間大事にするなんておかしい、というような人間に対しても与えられるものである。神の恵みとは、それを受けるにふさわしくなってから与えるのではなく、与え続けることでそれを受けるにふさわしい人間に変えていく、そんなものかもしれない。そんな恵みによって、私たちは神の子とされているというのだ。
神の子
そして神の子としようと、天地創造の前から私たちを選んでいたというのだ。 私たちは神が選んでくれたことで神の子とされたという。天地創造の前なんていうのはちょっと言い過ぎのような気もしないでもないが、とにかくずっと前から選んでいたという。
つまり私たちの状態を見て、神の子としてふさわしいからとか、合格したからそうしたというのではなく、私たちの状態に関わりなくずっと前から決められていたというのだ。
要するに私たちが神の子としてふさわしいからそうされたのではない。ただ神がそうしようと思って決めたから神の子とされているのだ。私たちの実体は神の子にはふさわしくないと思う。ふさわしくないのに神の子とされた、ふさわしくない者を神の子とするために、イエス・キリストにおいて、イエス・キリストの血によって贖われ罪を赦されたのだ。イエス・キリストによって私たちは神の子としてふさわしい者とされたのだ。そしてそれはただ神の恵み、神の一方的な恵みなのだ。
手紙の書かれたローマ帝国が地中海沿岸を治めていた時代、父親の権威は絶対だった。父親が生きている限り子どもに対して絶対の権威を持っていた。ローマの父親は、自分の子どもを奴隷として売ることも、子どもを殺すこともできた。子どもが成人しても、どんなに立派な人間になっていても、父親は生きている限りその子に対して絶対的な権威を持っていた。またローマ法によると、子どもは何一つ所有することができず、誰かから贈られた贈り物も父親の財産となった。
しかし一人の父親の権威から離れる方法がないわけではなかった。それは養子縁組をするということだった。そして養子縁組が成立すると、今度は新しい家庭の子どもとしての全ての権利が与えられ、古い家庭でのあらゆる権利は消滅した。以前の家族達が関係する負債や債務からも完全に解放された。養子縁組された子どもはほとんど生まれ変わったようなものだったようだ。
エフェソの信徒への手紙の2章では、「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と書かれている。そしてそれは「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」とあるように、神の子としてではなく、邪悪なものの子として死んだような状態だったというわけだ。しかしイエス・キリストによって私たちは神の子とされている。過ちと罪にまみれていた私たちをそのままで神は自分の子としてくれているというのだ。イエスの命という償いによって私たちは神の子とされているというのだ。
だから私たちは過ちと罪に支配された家から、神の家へと引っ越してきたわけだ。引っ張ってきたもらったということだ。私たちが何だか分からないうちに気が付いたら神の家に移され、神の子とされていたわけだ。
罪とこの世の権力のもとに完全に支配されていた私たちをそこから取り出して、神はご自身の権力の元に置いてくださった。過去のあらゆるものを全部帳消しにして、新しい神の家族の一員としてくれたのだ。
びっくり
だから神の恵みはびっくり仰天の恵みなのだ。
そしてなぜ私たちを神の家へと連れて来て、神の子とされたのかということが10節に書かれている。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」
私たちはそもそも神の家に住む神の子として造られた、前もって準備してくださった善い業のために造られた者だからだというわけだ。もともと神の子として造られたものだから、元のところへ連れ戻したということだ。本来いるべき神の家に連れ戻したということだ。
だからそれは私たちが信じて決断して神の家へと引っ越ししたわけではない。気が付いたらそこにいたというようなものだ。
信仰によって救われたとあるけれども、その信仰とは、苦しくて体を硬くして頭を抱えてしゃがみ込んでいるうちに神の家に移された、そこで堅くしていた体を解きほぐして周りを見回し、ここが神の家であることを確かめることだ。それが信仰だ。信仰によって神の子とされるのではなく、神の子とされたのだということを確かめる、受けとめる、それが信仰だ。
神の子とされたから神の子として生きるようにと言われている。神の子とされたことを感謝して生きること。私たちの内にいてくださっている神に支えられて生きていく、それが私たちの生き方だ。