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礼拝メッセージより
「イエスは何者?」 2006年10月29日
聖書:ルカによる福音書 4章16-21節
ふるさと
イエスにとっての故郷とはどんなところだったのだろう。ナザレという田舎の町がイエスの故郷だった。安息日に会堂で教えはじめた。会堂長は会衆から一人を選んで聖書朗読と説教をさせることができた。特に資格のあるものだけが説教をしたのではなかった。
ナザレの人たちはイエスのことをなにもかも知っていた。少なくともそのつもりだった。その母親も兄弟も姉妹も昔から知っていた。この日、会堂で説教をする前まではみんなよく知っているつもりだったことだろう。
この少し前からのイエスの活動について、多少なりとも聞いていたかもしれない。多分いろんなうわさは聞こえていたであろう。でもそのうわさを真に受ける人はいなかったのだろう。この日、説教を聞いてみんなびっくりしてしまったようだ。いったいこんなことを何処で聞いてきたのか、いつの間に、いつからこんなに偉そうに話すようになったのか、あのイエスがこんなことしゃべるなんて信じられない、そんな気持ちでいたのではないか。
自分たちのそれまでのイメージのためにイエスの本当の姿が見えなかった。イエスをよく知っていると思っているために、却ってイエスの本当の姿が見えなかったのだろう。良く知っている、という気持ちがイエスの本当の姿を知ることの邪魔になっている。
ナザレの人々はイエスの躓いた。彼らは自分たちの中のイエスのイメージに縛られて、それを捨てることが出来ず、結局はイエスを殺そうとまでした。
普通
ナザレの人々がイエスを受け入れなかった理由のひとつが、イエスがあまりにも普通の人だったからではないか。いかにも神々しく光輝くような人物だったなら人々の反応も恐らく違ったであろう。何か普通ではないものを持っていたとするならば、特別なものがあったならば、あるいは人々も一目置いたかもしれない。やっぱりそうか、あいつは昔から何か違っていたから、いずれはこうなるだろうと思っていた、ということになったかもしれない。でも、多分イエスはあまりにも普通だったのだ。頭の上に輪っかもなかっただろう。
イエスは父のあとをついで大工になったらしい。おそらく父のヨセフは早くに死に、イエスは長男として家族を支えるために大工の仕事をまじめにしていたであろう。そして弟たちが家族を支えることができるようになるまで普通の青年にあったのだろう。
イエスは弟たちが家を支えることが出来るのを待って、神の国を知らせる活動を始めたのかもしれない。
それまでのあまりの平凡さの故に人々はイエスを受け入れられなかったのではないか。
予断
さて、昔中3の時に好きな先生がいた。その人はもうお祖父さんといった歳で国語の先生だったが、国語の授業らしい授業は半分くらいしかしなくて、いつも違ういろんな話をしてくれた。国語の点数はいつも50点くらいで悪かったが、この先生の授業は好きだった。他の先生とは違って、いろいろなことに批判的な目を持つことの大切さを初めて教えてくれたのはこの先生ではなかったかと思う。
この先生が良く言っていた話し。ある高校の理科の教師が論文を書いて提出した。でも審査員はたかが高校の教師だから、とろくに見もしないで放っておいた。30年位たってから、その教師の教え子が大学の講師になってかの先生が論文に書いた内容のことを話したら、皆からそれは凄いとほめられ。しかしこの講師は、そんなことはあの先生が30年も前に論文に書いている、といった。それから30年前の論文を探したらあった。その論文の上にはほろりが30cmも積もっていた。という話し。
今の日本も肩書がものをいう。肩書のないものなど見向きもしない、どんないいことを言っていても聞きもしないことも多い。偉い先生といわれている人の話しは、ありがたいお話だったといいながら、同じことを何の肩書もない普通の人が言うと、何を偉そうに、ばかなことを、ということになったりする。
ナザレの人々がイエスを受け入れなかった理由のもう一つが、イエスが枠の外にいたということだったのではないか。田舎には古い習慣と因習がいっぱいある。なんでも昔ながらにすることを好む。前例がない、というだけで全部拒否するようなところがある。
自分達の思っている枠の中にいるときには認めるけれど、その枠から外に出ると拒否したり非難したりすることは今でもよくあることだろう。
しばらく見ないと思ったら変な弟子を引き連れて急に帰ってくる。そうかと思えば聞いたこともない話をする。耳障りのいい話の時はいいが、自分達の納得できないような話しになると、なんなんだこいつは偉そうにということになったのだろう。大工は木を切って、家を建てとけばいいんだ。こんな話を聞きにきたんじゃない、ありがたい話を聞きに来たんだ、と思ったのだろう。ナザレの人々は結局イエスの話の内容を聴くことができなかった。
ナザレの人は大工のくせにと思ってイエスの真の姿を見ることができなかった。素直に聞くことができなかった。
私たちは反対にイエスは神なのだ、キリストなんだということを知りすぎていて却ってイエスの姿が見えてないのかもしれない。神なんだからこんなちっぽけな私のことなんかしっかり見ていてくれるはずがない、高い高いところにいるに違いないと思う。祈る時も、神に語るのだからきちんとした綺麗な言葉でないといけない、キリストに向かってこんな愚痴を言ってはいけないなんて思っているのではないか。
案外私たちも聖書を読んでイエスの言葉を聞いてイエスのことを知るよりも、キリストとはこんなもんだという、どこか聖書とは離れたところで作られたイメージを持っているのではないか。聖書をじっくり読むと、案外イエスはそんな私たちの作っている垣根の外にいることが多いかもしれない。
私たちは自分を守るために一所懸命に城壁を作っているような気がする。
健康で、若くて、お金を持って、何でもできる、地位も名誉もある、そんな人間でなくてはいけないような、そんな人間でないと生きている意味もないような、そんな人間でないと誰にも愛されないようなそんな思いがある。だから自分の健康や若さや教養や財産や地位や名誉、そんなものが外に流れ出してしまわないように一所懸命垣根を作って守ろうとしている。そしてその垣根を作ることに疲れてしまっている。病気にならないように一所懸命に細かいことまで気を使いすぎて反対に病んでしまうなんてことがある。
でもイエスは語る。貧しい者は幸いだ、与える方が幸いだ、そんな言葉は私たちがそこからこぼれないように必死に守ろうとしている垣根の外から聞こえる言葉だと思う。大丈夫だ、心配するな、あなたに必要なものは神が与えてくれている。あなたのことは神が守っている、あなたのことを神が愛している、だからあなたはあなたの隣人のことを愛しなさい、そこに幸せがあるのだ、イエスはそう言っているのではないか。
イエスの真の姿を見て、イエスの語るそのままの言葉を私たちは聞いているだろうか。
イエスはいろいろなびっくりするようなことを語っている。