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礼拝メッセージより
「神の力」 2006年10月22日
聖書:エフェソの信徒への手紙 1章20-23節
感謝
これはちょっと屁理屈かもしれないが、最近人の祈りが気になることがある。自分の祈りにけちをつけられるのはいやだから人の祈りについてもあまり言いたくはないけど、それでも少し気になる時がある。そのひとつが祈りの中で、これこれをしてくれたあの方に感謝します、っていう言い方。食事を準備して下さった何とか姉妹に感謝しますっていうような言い方。それなら本人に直接言うべきことで、祈りの中で言うことじゃないのではないかなんて思う。祈りは神に向かって語っているんだから、誰かさんに感謝しますっていうのは方向が違うんじゃないかと思う。やっぱ屁理屈かな。
パウロはこの手紙の中でエフェソの教会の人たちのことで感謝しているという。それはエフェソの教会の人たちが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していること、を感謝しているというのだ。聖なる者たちとは教会に集う者たちのことであろう。教会の人たちが愛する者となっているということ、それこそをパウロは感謝するというのだ。
世間では立派な人間になる程、だんだんと近づきにくくなるという人がいる。所謂偉い人には近づきにくい。変に近づくとしかられそうな気になる。お前のそこはおかしい、そこは間違っている、そんなことも知らないのか、まだまだ甘ちゃんだななんて言われそうな気がする。でも教会で立派な人とは愛する人のことだ。間違いのない人間ではなく、愛する人間こそが教会では一番立派な人間だ。近寄りがたい偉い人ではなく、そばにいるだけでホッとできるような人間、そんな人こそが教会では立派な人なんだと思う。
パウロはエフェソの教会の人たちが間違いのない偉い人になっていることを喜んでいるわけではない。愛する者であることを喜び、そのことを神に感謝しているというのだ。
隣人を愛するということはイエスの命令でもある。一番大事な命令でもある。隣人を愛するということは、隣人を受け止めていくこと、隣人すべてを受け止めていくことだろう。
人はみな間違いや足りなさやだらしなさや傲慢や、そして罪をいっぱい持っている生き物だ。そんな間違いも足りなさも罪も持っているその人をまるごと受け止めて大事にしていく、それこそが愛するということなんだろうと思う。
私たちは相手を正すこと、相手の間違いをなくすこと、相手をいい人間に変えてあげよう、というようなことには割と熱心である。姑のことが憎いという人がいると憎んじゃいけませんと言い、子どもを虐待してしまうという話しを聞くと、暴力はいけませんと言うことが多い。自分のことは棚にあげて相手の間違いを正そうとか、正しい人間にしようとして、そのままの相手を見れていない、受け入れることができていないことが多いかもしれない。相手そのものを見ることよりも、相手の間違いや駄目さや罪や、あるいは自分が気に入らない所ばっかり見ていて、本当は相手が見えてなかったりするのかもしれないと思う。愛するということは、罪も汚れもないきれいなだけの相手を見るのでもなく、罪や汚ればかりをみるのでもなく、罪も汚れもしみもある相手を見ること、そして全部を受け止め大事にしていくということなのではないかと思う。
神は私たちの全てを受けとめてくれている、罪も汚れも全部ひっくるめて受けとめてくれている、だからあなたたちもお互いにそのようにしなさい、愛し合いなさいと言われているのだ。だから教会はそんな風に愛し合う、全部受けとめていたわり合うところなのだ。
願い
続けてパウロはエフェソの教会の人たちに対して、神のことを深く知ることができるようにし、心の目を開いてくれるように、と祈る。そして神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、神の力がどれほど大きなものであるかを悟らせてくれるように、と祈っている。
神のことをもっともっと知って欲しい、神の栄光も力ももっと知って欲しい、すべてはそこから始まるのだ、ということだろう。
宗教的なことがらになると特にそうだが、いろんなしきたりや行事の仕方というようなことの方にばかり関心が向くことがある。教会でも礼拝の順序はどうしなければいけないか、どんな讃美歌にしないといけないか、なんてことからもっともっと細かなことまで気になって、そんなことばかり考えているなんてこともある。そしてだんだんとそんなしきたりや何かのやり方をよく覚えることが、信仰深くなるようなことになってしまって、そんな物知りの人が教会の中心にいることになる、なんてことになってしまうようなことになりかねない。
けれどもパウロが願って祈っているように、私たちにとっても大事なことは、教会のしきたりを覚えることよりも、神を知ること、神の偉大さを知ること、神の愛を、愛の深さを知ること、そしてその偉大な神のもとへ招かれ集められているということを知ることだろう。それを知ることから、そしてそのことを感謝し喜ぶところからすべては始まるのだと思う。
イエスを死から復活させた神の力によって私たちは支えられているのだ。死で終わってしまう力ではなく、死をも突き抜けて私たちの全てを支えている、そんな神の力によって私たちは支えられているのだ。
教会でいろんなことをする、それはこの感謝と喜びから起こってくる出来事なのだ。礼拝することも献金することも、そこから起こってくる出来事なのだ。しなければいけないからするのではない。
キリストの体
私たちはこの神のよって愛され教会に集められている。そして教会はキリストの体であるという。私たちはその体のそれぞれの部分を構成する者として教会に集められている。今の世も、来るべき世もすべてを支配している、そのキリストのもとに、キリストの体として集められている。それぞれに与えられている賜物、才能を生かし合って、尊重し合っていくために集められている。愛し合うために集められている。
愛すること
ある教会では、互いに裁かない、というのを教会のスローガンにしているそうだ。そしてそこの教会はどんどん人数が増えているそうだ。
当たり前のようなスローガンみたいだが、実は案外どこの教会もそれができていないのかもしれないと思う。
私たちはみんな間違いも足りなさも罪も持っている。みんないっぱい持っている。そんな罪人の集まりが教会である。互いに愛し合うこと、いたわりあうこと、それが私たちの教会にとっても目指すところだろう。
私たちを赦すためにイエスは十字架の死という大きな犠牲を払った。それくらい愛するってことは大変なことだ。赦すということ、裁かないということは大変なことだ。しかし愛し合いなさいというのがイエスの命令だ。私たちに与えられている一番大切な命令だ。なかなか愛せない私たちだ。しかしそんな私たちを神は支えてくれている。
絶大な働きをなさる神の力、とパウロは語る。その神の力は私たちが愛するために、愛する者となるために働いているのではないか。神の力によって初めて私たちは愛する者となれるのかもしれない。なかなか愛せないと思う。しかしこの神の力はキリストを死者の中から復活させるほどの力なのだ。
赦す者となるように、裁かない者となるように、愛する者となるように、神の力を知る者となるように祈っていきたいと思う。