前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「低きに」 2006年10月15日
聖書:ヘブライ人への手紙 5章1-10節
大祭司
祭司は民の罪を償ういけにえを献げる仕事をしていた。
罪とは法律に違反することではなく、この世の悪いと言われていることをすることではなく、それよりも神の言葉に従わないこと。神の声を聞かないこと。そして自分のことだけを考えること。自分の力だけで生きていこうとすること、自分の力を頼りに生きていくこと。
神との関係がおかしくなっている状態。
ルカの15章の放蕩息子のたとえ。息子は親父から離れて放蕩する。親の元から離れて自分の持っているものによって、それは結局は親父のもらった財産だったわけだが、そして親父から離れて遠くに行ってしまう。
神から離れ、自分の力で生きていけると思うこと、神に頼るのではなくて自分の持っている才能や自分の持っている財産に頼ること、それが罪の状態なのだろう。
神との関係を正しく持つこと、神から離れてしまうという、神に従わなくなってしまうという罪を赦してもらうために祭司はささげものをささげていた。ささげものをするという大事な務めを祭司は負っていた。ささげものによって、つまり罪を犯した者が自分の命の身代わりとして牛や羊の命を献げることで罪は赦され、神との関係を正しく持つことができるようにされていた。祭司はそんな大事な務めを負っていた。そして罪のために繰り返しささげものをしていた。
その祭司の長が大祭司だった。最初の大祭司はモーセの兄のアロン、そしてアロンの子孫が代々大祭司をついでいた。
このヘブライ人への手紙では、大祭司は自分自身も弱さを身にまとっていて、無知な人や迷っている人を思いやることができる人である、と書かれている。思いやりのある者でないと大祭司とはなれないということらしい。お前達の罪を償うためにいけにえをささげてやっているんだ、俺がいるから神の赦しがもらえるんだ、なんて威張っている人は大祭司とはなれないらしい。人の弱さを分かる人、そして自分自身も同じ罪を持っていることを自覚している人が大祭司となるのだと言っている。
また大祭司は神によって召された人であるという。神によって選ばれた人なのだ。みんなによって選ばれたのではなくて神によって選ばれたということなのだろう。あれができる、これができるからということで人は選ぶけれども、そうではなくただ神によって選ばれて大祭司となるということだ。
イエス
そして聖書はイエスが自分をささげたことによってすべての罪は赦されたというのだ。イエスが十字架によって自分をささげたことによって、すべての民のすべての罪は赦されたという。だからこれ以上のささげものをする必要はないというわけだ。イエスは全ての民のための献げ物をした完全な大祭司であるという。
神から、今日あなたを産んだとか、永遠にメルキゼデクと同じような祭司と言われるように、神によって私たち全ての罪を贖う働きをするように立てられた、神と人間との関係を修復するように立てられた完全な大祭司であるというのだ。
またイエスは私たちと同じように苦しみを通ってきた方であるとも言う。十字架につけらる前に、どうかこの杯を取りのけてほしいと必死に祈る、そして十字架の苦しみを受けとめた、そんな方であった。だから弱さをいっぱい持った私たちのことを思いやることのできる、完全な大祭司であるというのだ。
イエスが完全な大祭司である、だから永遠の救いの源となったというのだ。そこには完全な救いがあるというのだ。完全な赦しがあるのだ。
救い
イエスによってもたらされた赦しは放蕩息子を迎え入れた親父のよう。親父は自分の財産を使い果たし、落ちぶれてしまっている息子をそのまま迎え入れる。親父は、息子が自分が間違っていた罪を犯したといったから迎え入れた訳ではなかった。それを言う前に迎え入れている。そして自分の大事な息子として迎え入れている。
神の赦し、イエスの赦しとはそれほど徹底的な赦しのようだ。そんな甘いことでどうするのか、そんなことしていたら息子のためにならない、もっと厳しくすべきだ、と思うような話しだ。しっかり働かして償いをさせてから赦すべきだ、と言いたくなる。あるいは、赦すと言ったとしても、赦してやったんだからこれからはちゃんとするんだろうなあ、と条件を付けた方が良いんじゃないのと思う。
しかし神の赦しは人間の思うようなそんな赦しではないらしい。何もかも完全に赦してしまう、まるで何の罪もなかったかのようなそんな赦しのようだ。イエスの十字架の赦しはそんな完全な赦しなのだ。
そんな圧倒的な赦しをイエスは成し遂げた、と聖書は告げる。私たちはイエスの十字架の贖いによって赦されている、ということを聞いている。けれども実はその赦しをほんの小さなものと思いこんでいるのかもしれないと思う。
神を信じるようになったのに、こんなだらしない自分ではいけない、こんな自分では神に見捨てられてしまうに違いないというようなことを勝手に決めてしまうようなことがあるのではないか。これができない、あれもできない、何も出来ない自分を神はそれほど愛されてはいないのではないかと勝手に決めているのではないか。あるいはまた、自分の心の奥にあるどろどろした思いを神は赦されはしない、そんな思いを持っている自分を神は大事に思ってはいない、というようなことを勝手に思いこんでいるのではないか。
そんな風に自分で勝手に赦しを限定して、ここまでは流石に神さまでも赦しはしないだろう、というような思いを誰もが持っているのではないかと思う。
放蕩息子がそうだった。自分のことは赦されることではないと思っていた。自分は息子としての資格も失ったに等しいと思っていた。けれども親父は息子のすべてを赦し、息子を息子として迎え入れた。心から喜んで迎え入れた。これは絶対に赦されない、と自分で思うようなことも赦されているのだ。イエスの赦しはそういう完全な赦しなのだ。
そんなに甘やかしては堕落してしまうのではないかと思うほどである。でも実は堕落してしまうのは完全な赦しでないからではないかと思う。今回は赦してやる、でも次にまたやったら承知しない、お前のためにどれほど苦労したかわかってんのか、なんていうような赦しならばまた同じことをしそうな気がする。けれども全面的な赦し、完全な赦しを前にしたならば人はそれに圧倒されるしかないのではないか。
ある神父の話だったと思う。その人が子どもの頃、近くで教会を建てていた。その現場に行って釘か何かを少しずつ盗んでいた。ある時それをそこの神父に見つかってしまった。神父に呼び止められてどうなるかと思ったら、その神父は手を出しなさいと言って、釘をいっぱい載せてもっと持って行きなさいと言ったそうだ。そしてその後その少年は神父になったと言っていた。
そんな人を圧倒し、根底から替えてしまうような赦し、それがイエスの赦しなのだろう。それは私たちのすべてを包み込む、間違いも失敗もだらしなさも全部包み込んで全部支える、そんな赦しだ。
赦されたからには一歩も道をそれてはならない、決して失敗してはならない、少しも悪い思いを持ってもならない、いつも正しくしていなければならない、というようなことであればそれは大変苦しいことになる。赦されたとは言っても安心して生きていけそうにない。けれども、何度失敗しても、何度挫けてもそれでも支えられている、それでも守られている、それでも徹底的に守られている、そこで私たちは安心して生きて行ける。イエスの救いはそんな救いだ。イエスの赦しはそんな赦しだ。
低きに
私たちがそれほどに赦されているのは、イエス自身が苦しみ嘆いた人生を生きてくれたから、そんな私たちを思いやることができる方だからなのだ。神を信じたら泣き言を言うな、なんてことは言われない。私たちが苦しいつらい人生を生きていることはイエスがよく知っているということだ。そして嘆いたりつぶやいたりする私たちを憐れんでくれている、そんな私たちといつも共にいてくれているのだ。
だから私たちは無理矢理信仰深いふりをすることもない。無理に元気なふりをする必要もない。苦しい時は苦しいと言えるし、悲しい時は悲しいと言える、嬉しい時は嬉しいと言える、イエスはそれをしっかりと聞いてくれている。
教会はそんな声を神に、イエスに一緒に聞いて貰うところなのだ。教会は苦しみも悲しみも嘆きも喜びも楽しみも全部抱えてやってくるところだ。
そんな人生を生きたイエスが聞いてくれているのだから。