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礼拝メッセージより
「復活」 2006年10月8日
聖書:使徒言行録 2章22-36節
わからない
復活ってどんなだったんだろう。
復活に関する本を読んでもみんないろんなことを書いていて余計分からなくなりそうだ。
イエスが復活した、と聖書は告げる。復活のイエスに出会った人たちがいることが書かれている。
墓がからっぽになったことも。でも本当はよく分からない。
聖書を見ると復活のイエスに出会った人たちは限られた弟子たちだったようだ。
コリントの信徒への手紙一15章でパウロはキリストの復活のことを書いている。
15:1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。
15:2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
500人程の兄弟に現れ、最後にパウロ自身にも現れたと書かれている。一般大衆の中に現れたという訳ではないらしい。
そしてパウロに現れた時のことは使徒言行録に3回くらい出てくる。たとえば9章1-9節では、
9:1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
9:8 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。
9:9 サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
パウロのイエスとの出会いは光に照らされて声を聞くという出会いだった。誰もが見える姿で目の前に現れるというような出会いではなかった。
つまり肉体の目で見て耳で聞くというような出会いではなかったようだ。
復活のイエスとの出会いってのはそんな仕方での出会いなんだろう。
出会い
イエスがどんな風に墓から出てきたかを知ることよりも、イエスとどう出会うかが大切なのだろう。
イエスがどのように復活させられたのか、よくは分からない。どんな形で復活させられたのかもよく分からない。肉体をもってなのか、それとも幽霊みたいなのか、よくは分からない。しかしよくは分からないが復活のイエスは自分について来ていた女たちや弟子たちに会ったことが福音書に記されている。復活のイエスに出会ったのは、生前のイエスをよく知っている人たち、イエスの言葉を聞いてきた人たちだったようだ。
そしてイエスとの出会いは、道ですれ違うような出会いではなくて、心の中に甦ってくるような、心を満たされるようなそんな出会いだったのだろう。
そしてそのことから弟子たちは元気になっていった。彼らは絶望していた。神よ、どうして私を見捨てたのかと叫んだのは十字架上のイエスだけではなく、弟子たちも同じだったのかもしれない。全てを捨てて人生をかけてイエスに従っていたのだ。イエスの呼びかけに応えて、弟子となることを誇りに思ってついてきていたのだろう。いろんなイエスの奇跡も目撃し、イエスの言葉に諭されたり感動したりしながら、この人は偉大な人だという気持ちもだんだんと大きくなっていたに違いないと思う。
ところがその自分たちの師匠が、実質的に社会を牛耳っていたユダヤ教の指導者たちの反感を買い、神を冒涜した、社会を混乱させたということで捕まり、十字架につけられて、強盗と同じように処刑されてしまったのだ。
世の中を正すと思っていた師匠がつかまってしまい、自分たちも社会の反逆グループ、いわば非国民のグループということになってしまったわけだ。彼らは密かに逃げるしかなかった。そこで立ち向かっていく力などとてもなかった。もう駄目だ、これから一体どうしたらいいんだ、そんな気分だったのではないか。
しかし彼らはそこで復活のイエスと出会った。そこから弟子たちは再び立ち上がった。その出会いはとても個人的な、内面的な出会いだったのだろうと思う。しかしその出会いが弟子たちを絶望から立ち上がらせた。
私たちは今、顔と顔を合わせるようにイエスと会うことはできないだろう。しかし私たちは聖書を通して、イエスの言葉を聞くことを通してイエスに出会うことができるのだと思う。イエスの言葉が私たちの心の中にあるとき、イエスは私たちの心の中に生きているようなものだ。