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礼拝メッセージより
「十字架」 2006年10月1日
聖書:マルコによる福音書 15章21-39節
虐待
この頃テレビでは飲酒運転に対して大騒ぎしている。そこでは酒を飲んで事故を起こした人に対して、酒を飲んで運転するなんて何事かとみんなでよってたかって責め立てている。もちろん悪いことなんだけど、悪者を見つけてはよってたかって糾弾して喜んでいるような姿を見ていると、あんたら何様よと思う。少し前に昔有名だった歌手のグループが再結成される予定だったのが、ひとりが飲酒運転で事故を起こしたために再結成が取りやめになったと言っていた。聞くところによると、テレビの関係者がその事故を起こした人の何十年前の知人なんて人まで捜し出して、いろんな人にインタビューしていたそうだ。テレビを見ていると悪者とされた者をおもしろおかしく暴く、みんなでいじめる、そうしてもいいんだというような風潮があるような気がする。結局その人は自殺してしまったそうだ。それまで大騒ぎしていたテレビは、周りに迷惑をかけたことを気にしていたようだと、今度は短く放送していた。そこまで追い込んだ責任はテレビ側にもあるような気もするけど別に謝るわけでもない。
でも弱い立場にあるものに対して人間はそんな態度をとりがちである。はたから見ていると何でそんなことをするのかと腹立たしい思いがする。そんな奴のことを憎らしく思う。それが人間の本質なのかもしれない。そしてイエスの周りにも似たような者がいた。
侮辱
イエスに対しても、兵士たちは総督の官邸の中にひいていき部隊の全員を集めた。そして「ユダヤ人の王、万歳」といって馬鹿にした。王の衣の代わりである紫の衣を着せ、王冠の代わりに茨の冠をかぶせた。敬礼をしたり拝んだり、また逆に葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけたりして侮辱した。十字架にかけられるものに対してのいつもの仕打ちだったのかもしれない。
神はどうしてこんなことを許されたのか。人間の罪を思い知らせるためか、人間の醜さを思い出させるためか。人間の本心を暴露するためか。確かに何でも自分の思い通りになるところで、悪者とされた者に対して人間の本心は出てくるようにも思う。
兵士たちはそこを通りかかったシモンという人に十字架を担がせる。張り付けにされるものは自分で十字架の横木を運ばされたそうだが、イエスには前夜からの徹夜の取り調べとむち打ちに体力も残っていなかったというなんだろう。シモンの子どものアレキサンドロとルフォスは後にイエスを信じるものになったそうだ。
十字架の下に
そして彼らはイエスを十字架につけた。
十字架のもとではくじが引かれる。処刑されるものの服を処刑人が分配する習慣になっていたそうだ。石を投げるくじがあったらしい。争って石を投げ、落ちた先を確かめて着物を奪い合ったのかもしれない。頭上には十字架につけられたイエスがいることも忘れたこのゲームに興じたのだろう。
十字架のもとでの兵士たちの姿は、人間の心の奥の有様を見せつけている。人間は十字架のもとでくじを引き合い、着物を分け合った。キリストの名の下に、神の名の下に人々は争ってきた。そこでは殺し合い、傷つけあうこともあった。自分の欲望を満足させるために、思いのままに振る舞ってきた。
くじを引き合い、争っている、そのすぐ横に十字架は立っている。そこに服をはぎ取られたイエスは、十字架につけられている。すべての人間の暗く冷たい欲望の渦巻く所、そこに十字架は立っている。
十字架の下には人間の罪が、醜さが表れている。しかしまさにそれこそが自分たちの実体そのものではないか。私たちの心の奥底には兵士たちと同じ思いが渦巻いているように思う。何もかも自由になるとすれば私たちは一体どんなことをするだろうか。
何でもしたいことができるとなったときに一体私たちは何をするだろうか。今まで押さえていた欲望が吹き出しそうな気がする。そして実際私たちはそんな醜い、誰にもいえないような欲望を心の奥底に持っているのだろうと思う。
イエスの十字架はそんな人間の真ん中に立っている。そんな人間のどろどろした欲望、罪の真ん中に立っている。イエスは人々の過ち、不当な仕打ち、すべてを包み込んで、すべてを飲み込んで十字架についている。イエスはこうまでされてもなおも何もしない。間違いを指摘するでもなく、間違いを正すでもなく、すべてを飲み込んで、すべてをそのままに受け止めて、包み込んで、そして十字架についている。
間違いだらけの私たちの傍らに十字架は立っている。すべてを背負って、イエスは十字架についている。
処刑場にやってきた囚人たちは十字架に堅く縛られるか、あるいは手首を釘で打ちつけらるそうだ。そして囚人たちは十字架上で力尽きて死ぬまで苦しみ続ける。十字架刑は当時もっとも屈辱的な刑で、普通1日か、2日間苦しんでから死んだそうだ。死んだあとの死体も普通は野ざらしにされ、鳥やけものの餌にされていたらしい。
イエスは朝の9時に十字架につけられた。そして十字架につけられてからも、道行く人や祭司長、律法学者たちにあざけられた。「十字架から降りて来い、そうしたら信じてやろう」という風に。またイエスと共に十字架につけられた囚人からも罵られた。
昼3時に息をひきとるまで6時間、十字架の上で苦しみ続けた。どんな痛みだったのか、どんな苦しみだったのか、想像もできない。
叫び
イエスの最後の言葉は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」つまり、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」であったと記されている。人々に完全に見捨てられ、そして神からも見捨てられた、その様な状況にイエスは立たされた。
神の子が、どうして絶望して死んでいかねばならないのか。そもそもキリストがどうして殺されてしまったのか。本当にそんな人がキリストなのか。神の子ならどうにかしたらどうなのか。そのままじっとして、弱いままで死ぬことはないではないか。そんな気がする。
この時、この光景を見ていた者の中にも、同じように考えている人がいた。31節には「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と言った人がいたと聖書は語っている。
こういうときこそ、奇跡をおこして、十字架から颯爽と下りてくる、それこそがキリストである。私たちもそんな風にしばしば思う。
神の子
イエスは様々な奇蹟を行ってきた。イエスが奇跡を起こすことができなかったのだろうか。その気になれば,十字架から下りてくることも可能だったのではないか、と思う。しかしイエスは敢えてそれをしなかったのではないか。
神とはいったい何なのか、神とはどういうものなのか。いろいろなイメージ、人それぞれに持っているだろう。すごい奇跡をおこす方。光輝く姿で悪者を懲らしめ世の中の不正を正していく、そしていつもどこか高いところから、私たちを見ている、それが神のあるべき姿、だれもがそれぞれに神のイメージを持っているのではないか。でも誰もが持っているイメージにはとても似つかわしくない姿がここにある。私たちの期待に答えるような姿は十字架の上にはない。
イエスは絶望の声を上げて息を引き取った。まさに敗北の死の有様といった感じがする。そんな死に方をする者をだれがキリストだと思うだろうか、だれが神の子だと思うだろうか。だれが信じることができるだろうか。あの言葉は単なる絶叫ではないはずだ、あれが絶叫だなんて思いたくない、キリストがいくら十字架につけられているからといっても、絶叫して死ぬなんてことがあるはずがない、というような気持ちもある。何か深い意味のある言葉に違いない、と思いたい気持ちになる。十字架の姿だって、あれは単なる世を忍ぶ仮の姿でしかないに違いないと思いたくなる。本当の神の姿はこんなんではないのだ、と思いたくなる。
ところがこのイエスの姿を見て、この人こそ神の子だという人がいた。39節には『百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。』と書いている。百人隊長とは100人の兵隊の長で、百卒長と訳している聖書もある。
この人は大声を出して絶叫して死んでいったイエスを見て、「この人は神の子だった」と言った。ところがこの人はイエスに十字架につけた側の人間なのだ。いばらの冠をかぶらせ、つばきをかけ、十字架につけた兵士たちのうちのひとりである。この隊長がイエスを見て、「まことにこの人は神の子であった」と告白している。孤独に苦しみ、痛みに苦しみ、絶叫して死んでいったイエスを目の当たりにして、この人は神の子だ、と告白しているのだ。彼にはイエスが神の子であることがわかったのだ。
そこには私たちが求めるような神のしるしといったものは何も見あたらない。しかし、百人隊長はそんないわゆる神々しいしるしを見たからではなく、絶叫して死んでいった有り様を見て、イエスが神であることを知ったのだ。どうしてそんなことがわかったのか、それは分からない。それを感じ取ったと言ったほうがいいのかもしれない。
イエスは十字架で絶叫した。私たちの現実も絶叫するようなものでもある。イエスは絶叫し苦しみもだえている私たちのところに来て下さっている。私たちがどれほど苦しんでいるかも知っている。苦しみがどれほど人を痛めつけるのかも知っている。
イエスの名において祈ることで、私たちが望んでいるような奇跡は起きないかもしれない。しかしイエスは私たちの願通りに奇跡を起こすよりも、あるいはまた、イエスの思うように人をどうにかすることよりも、ただ共に居ようとされたのだと思う。
イエスはどんな時にも見捨てたりしない。人が皆見捨てても、神などいないと言ったときでも見捨てない。私たちがどうしてこんなことに、どうしてこんなことが、という時に、イエスは私たちと共にいてくれる。一緒に泣いてくれる、一緒に悲しんでくれる、一緒に悩んでくれる、そういう仕方でイエスは私たちのそばにいてくれる。イエスはどこまでも共にいてくださる。私たちの罪と汚れの結晶、それが十字架なのかもしれない。私たちの罪も汚れも何もかも全部引き受けて、全部受けとめて共にいてくれる。
たとえ全世界が見捨ててもイエスは見捨てない。それがイエスの約束でもある。