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礼拝メッセージより
「武装解除」 2006年8月6日
聖書:ミカ書 4章1-8節
ミカ
ミカ書1章1節によると、ミカ書のミカはユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代の預言者である。
列王記によると、ヨタムは主の目に正しいことを行った。しかしアハズは主の目にかなう正しいことを行わなかった。
アハズの時代にユダは北のイスラエルとアラムによって攻められ、エルサレムを包囲されたことがあった。その時アハズはアッシリアという強い国に助けを求めた。アハズ王はアッシリアのティグラト・ピレセルという王に、わたしはあなたの僕です、アラムとイスラエルから救いだして下さい、と頼んだ。そして神殿と王宮の宝物庫にある銀と金をアッシリアの王に贈った。そこでアッシリアの王はアラムをやっつけてくれた。そしてアッシリア風の祭壇を神殿の中に作らせた。
次の王ヒゼキヤは主の目にかなう正しいことを行った。聖なる高台を取り除き偶像を壊した。そしてアッシリアの王に刃向かって服従しなかった。しかしアッシリアは北イスラエルに攻めてきてサマリアも占領し、イスラエル人をアッシリアに連れて行った。そしてアッシリアの王センナケリブはユダにも攻めてきて、ユダの砦の町をことごとく占領してしまった。
ヒゼキヤはアッシリアの王に赦しを乞い、神殿と王宮の宝物庫にあったすべての銀や、金で覆った神殿の扉と柱を切り取って贈った。しかしアッシリアの王はヒゼキヤに降伏を迫ってきた。当時はエジプトを頼りとしていたようだが、アッシリアの力の方が強かったようで、エジプトなんかに頼っても無駄だ、というようなことまで言われている。
ヒゼキヤはイザヤにどうしたらいいかと相談したなんてことも書かれている。イザヤは神を信じ神に頼れということを答える。そしてその時は神の力によって助けられたという。
パレスチナは強い大きな国の間にある要衝だそうだ。方やエジプトがあり、反対側にはこの時はアッシリアとか、後にはバビロニアとかいう国が現れる。強い大きな国が相手を責める時に通過するのがパレスチナなのだそうだ。だから相手側の強い国を攻めるにしても、脅威を押さえるにしても、パレスチナを押さえておくことが大切だったらしい。
そんな両大国の脅威を感じたり、あるいは近くのもっと小さい国との争いがある中で、戦いに負けない力をつけることが国を守ることでもあったのだろう。あるいはどこと仲良くするかということが大事だった。強い方の国と仲良くすることで自分達を守るという面もあったようだ。
同じようなことが今でもあるような気がする。あの国が脅威だからこっちにつこう、攻められないように力をつけよう、攻められてもやられてしまわないように強くなろうという風潮になってきているような気がする。
戦争反対なんて言うと、何寝ぼけたこと言ってるんだっていうような雰囲気がある。マスコミでも戦争反対なんていう人はあまり登場しなくなってきた。周りの国がどんなに危ないかということを言う人じゃないとテレビには出られなくなってきたような気がする。
預言
そんな時にミカは預言している。終わりの日には、主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。
この前の戦争の時には反対のことがあったと聞く。鍋や釜などそこら中にある金属を供与して武器を作っていたらしい。最近のテレビドラマでもピアノ線まで持って行ったなんてやっていた。そんなものまで集めて、庶民の生活を苦しめるようなことまでして武器を作って、一体何を守ろうとしていたんだろうか、なんて思う。
イラクでも戦争が続いている。テロも続いている。信念を持ってやっているのだろうか。何かを守ろうとしてやっているのだろうか。国を守るためとか正義のためとか、そんな崇高な信念があるのかもしれない。でも実際にはイラクの一般の市民やアメリカの軍人たちが大勢死んでいる。指導者たちにどんな崇高な信念があるのか、あるいはないのかよく分からないけれど、結局は末端の者たちが死んでいく。生き残ってもいろんな苦しみを背負って生きているような気がする。
でも仕方ないのだろうか。人間なんて所詮そんな生き物、殺し合いながら生きていく生き物なのだろうか。
しかしミカは神の言葉を伝える。終わりの日のことを伝える。その時には武器を打ち直して農具にする、国と国が戦うことを学ばなくなるというのだ。終わりの日、それは一体いつくるのだろうか。ミカがこの言葉を伝えのはもう2,700年位も前のことらしい。こんなことに本当になるんだろうか。
しかしこれが神の言葉ならば、私たちはこれを目指して生きていくべきなのだ。とてもそんなことにはなりそうもないような気がする。今の世界情勢を見てても、国と国が争わない世界なんて来そうにない。
しかしそんな今の世間の風潮に従うのか、あるいはこの神の言葉に従うのか、それを私たちは問われているのかもしれない。教会で神の言葉を聞いている私たちこそ、この神の言葉を信じるのかどうかが問われているような気がする。
終わりの日には戦うことを学ばない日が来ると言われている、だからそれを信じて、そこを目指して生きていくように、平和な世界を作っていくようにと言われているのではないか。
力
力を持って力で対抗する。それが今の常識になっている。弱肉強食の世界になってきている。国と国のことだけではなく、身近な人間関係でも力を持つ持って相手を負かすこと、相手に負けないことばかりを目指しているような面がある気がする。でも喜びは相手を負かしたところにはない。相手を大事にする、愛するところに喜びがある。そんな相手とのつながりを持つことに喜びがある。