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礼拝メッセージより
「家を失った人たち」 2006年8月20日
聖書:ルカによる福音書 14章15-24節
宴会
イエスのたとえ話である。ある安息日にファリサイ派の議員の家で食事に招かれた時に話したたとえのようだ。食事に招く時はお返しのできない人を招きなさい、お返しされることがないから、正しい者たちが復活する時、すなわち終末の時には報われる、なんて話しをした。そうすると一緒に食事をしていた人、これはファリサイ派の人なんだろうけれども、神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう、と言った。ファリサイ派の人は自分達律法を一所懸命に守っている者こそ神の国に招かれるはずだ、神の国に招かれている自分達はどんなに幸いかと言いたかったようだ。それに対してイエスは今日の譬えを話された。
当時のしきたりとして、宴会をする時には2回招待されたそうだ。このたとえでも一度招待した者を、時間になったからということでもう一度来て下さいと招いている。
一度招かれた時には行くと言っておいたのに、もう一度招かれた時には、畑を買ったからとか、牛を買ったからとか、妻を迎えたばかりだから、と言って断ったということだ。それなりの口実ではあるけれども。自分ひとりくらい行かなくてもいいと思ったのだろうか。
そうすると家の主人は怒って、町の広場や路地にいる、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来させた。それでもまだ席があったということで、通りや小道にいる人たちを無理矢理に連れてこさせたというのだ。
当然招かれている、招かれるに価すると思っていたであろうファリサイ派の人たちにとっては耳の痛い話しだ。最初は神に従いますと言っていながら、いざとなるといろんな口実をつけて従わないと言われているようなものだ。そして貧しい者や体の不自由な人や目の見えない人や足の不自由な人、そして通りや小道にいて物乞いをしているような人、家がなくいホームレスのような人、そんな人が神の国に招かれると言っているようなものだ。
神の国
ちょっとこれはびっくり。ファリサイ派の人たちじゃなくてもびっくりする話しだ。
神の国で食事をする人というのは、ほとんど神に無理矢理に連れてこられた人ということになる。招かれたことに対してお返しを出来ない人、そもそも食事に招待されることなんてこと自体考えられないような人、そんな人たちが結局は神の国に入るのだと言われているような気がする。
俺たち神の国に招かれている、あいつらは教会にも来てないし聖書も読んでないから招かれていない、なんて思っているとしたら大間違いかもしれない。神の招きとはほとんど強引に、無理矢理に食事に招待するようなものなのだ。いつ誰がそうやって招かれるのか分からない。
私たちはどうやって教会にやってきたのだろうか。あの時あんなことがあったから、あの時こんなことがあったから、あの人に出会ったから、そんないろいろなことがあって教会にたどり着いているのではないか。どこかが少し違ってたら私たちはこうしてこうやって教会に来てはいないかもしれない、と思えるようなことがいっぱいあるんじゃないか。でもそれがうまくつながって教会に来ている。それはたまたまという見方も出来るかもしれない、けれどもやっぱりそこには見えない神の導きが、招きがあるのだと思う。もちろん神が姿を現して腕を掴んで引っ張って来ることはないし、知らないうちに気が付いたら教会に来てたなんてこともないだろう。そんな所謂神懸かりみたいなことはないだろう。けれども極々日常的なことの積み重ねを通して、極々ありふれたことを通して神は私たちを招いてくれている、導いてくれているのだと思う。何気ない出来事を通して、しかし神は強引にしっかりと私たちを招いてくれているのだろう。
繋がり
そうやって強引に招いた者たちは、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人、そして通りや小道にいる人だった。みんな社会からのけ者にされていた人たちだ。体の不自由な人たちは罪があるからそうなのだと考えられていた。弟子たちがイエスに対して、生まれつき目の見えない人のことを聞いたことがあった。この人が目が見えないのは誰の罪なのか、本人の罪か、両親の罪かと弟子たちは聞いた。そんな風に罪の結果として体が不自由になる、罪があるから祝福されない、罪があるから悪いことが起こる、と考えられていた。そして罪のあるものは社会からのけ者にされていた。しかし神はそんな者たちを強引に神の国へと招く、神の国の食事に招くというのだ。
それはお前の罪の所為だと言われて苦しんでいるもの、社会とのつながりをうまく持てないでいるもの、そんな物を招くというのだ。それも半ば強引に。
ホームレス
ホームレスの人たちが日本にもいっぱいいるそうだ。ホームレスというのは家がないという意味みたいだけれども、家といってもハウスレスではなくてホームレス、つまり家庭がないということのようだ。自分の住み家が持てないことももちろん問題だけれども、それよりも家庭がない、家庭という繋がりがないことが問題なのだそうだ。家はあっても、家族がそこにいても、家庭というような繋がりがない人たちも大勢いるみたいだ。荒れる若者たちも、結局は家族や周りの者たちとの繋がりを持てなくてもがいているみたいだ。
人間というのは繋がりを求めている動物であるし、繋がりがなければ生きていけない動物なのではないかと思う。人間同士の繋がり、そして神との繋がりが必要な生き物なのだと思う。そしてそんな繋がりを持つために、神は人を招いているのではないか。神はホームレスの人たちや体の不自由な人たち、繋がりを持てなくて苦しんでいる人たちのことを招いておられるのではないか。
教会はそんな人たちの集まりでもあるのだろう。教会は家を失った人たちの家でもあるのだ。