前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「むさぼり」 2006年7月23日
聖書:列王記上 21章1-24節
さま
最近のテレビの報道を見ているとうんざりする。ならばテレビを見なければいいという気もするが。特に皇室の報道を見るのが苦痛である。○○さまがご静養なさるとか、やたらと変に丁寧な言い回しをしたりする。そして良いことしか言わなくて、決して悪いことは言わないのを見ているとうんざりする。彼らは完全無欠な高貴な人間なんだろうか。それとも神なのか。テレビを見ているとまるで神さまのように扱っているみたいで虫唾が走る。
王
聖書は王が悪事をはたらくことが出てくる。多分一番有名なのは、ダビデという王が、自分の部下の妻を寝取ってしまったことだろう。宮殿の屋上から美人が水浴びしているのが見えた。その人は自分の部下ウリヤの妻であったが、その人の裸を見て、どうしてもその人を自分のものにしたくなってしまったようだ。その後ウリヤの妻が妊娠したことを知ったダビデは、戦争に行っていたウリヤを呼び戻して妻のもとへ返して自分が妊娠させたことを誤魔化そうとした。それが思うように行かないと分かると今度はウリヤを最前線へ行かせて殺させた、なんてことが書かれている。聖書は、王がいつも正しかったなんてことは書いてない。ダビデにとってはこんな恥ずかしいことまで書かれている。そして次の王ソロモンはこのウリヤの妻が生むことになるわけだが、新約聖書のマタイによる福音書の最初に系図が載っているが、その系図の中にもわざわざ「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」なんて書かれている。
一番有名なダビデの一番知られたくないようなことを聖書は書いている。王だからといって何もかも立派だったなんてことは書いていない。王でも間違うことはある、やっぱり人間なんだということだろう。人間であるということは神ではないということだ。神と人間との区別がはっきりしているということだ。
イスラエルの国が南北に別れてしばらくたってから、北の王になったのがアハブだった。アハブ王は外国の王の娘イゼベルと結婚した。そんなこともあって外国の神バアルも崇拝するようになっていた。バアルの預言者とエリアがいけにえに火をつけようと対決することがあったが、その時の王がアハブである。
アハブ王は宮殿のそばにあったぶどう畑が欲しくなり持ち主のナボトに譲ってくれるように頼んだ。代わりの畑か、それ相当の代金を払うから、ということで頼んだ。彼は王であったが正当な取り引きをしようと願った。
しかしナボトはその申し出を断ってしまった。先祖から伝わる、神から与えられた土地だから譲ることは出来ない、と。神から与えられた土地なんだからそれを寄こせとは誰も言えないというのがイスラエルの決まりだった。アハブ王ももちろんそのことを知っているから無理強いすることもなかったようだ。思うようにいかなかったアハブ王は機嫌を損ねて、腹を立ててしまった。なかなかかわいい王様である。ベッドに寝たままになって食事も取らなかったなんてちょっと弱気な幼い感じもする。
アハブ王の妻イゼベルはこの様子を見てアハブ王にどうしたのかと尋ねると、アハブ王はこれこれこういうことがあったと説明する。イゼベルは「あなたがイスラエルを支配しているんですよ、ちゃんと食事もして元気出しなさい、ぶどう畑も手にいれてあげましょう」なんてことを言う。
アハブ王はどんな人だったのだろうか。どれほど自分に自信を持っていたのだろうか。あまりなかったような気がする。王となってまでも自分の思い通りにいかないことを嘆いている。主体性がないという感じ。自分の考えで何でもできそうな立場にいながら、それを無理に通そうともしない。それだけ自分だけのことではなく国のことを考えているかと思えばそうでもない。妻のイゼベルの言うことにはすぐに従う。
イゼベルにとっては王が自分の国のものを自由にできないわけがないという考えなのだろう。国のものは全部王のものだという前提があるように思う。日本でも、国民は天皇陛下の赤子である、と言っていたそうだが、国も土地も人も何もかも王のものであるというのがイゼベルの考えだったようだ。
イゼベルはもともとイスラエルの人ではなく外国の王の娘であり、彼女にとっての王とは多分何でも自分の自由にできる、国の中でただ一人自分勝手が出来る絶対者、誰からも批判されないほとんど神のような存在だったのではないかと思う。だからであろう、イゼベルは町に住む長老と貴族をまきこんで、ならず者に偽証をさせてぶどう畑の持ち主であるナボトを死刑にしてしまう。一応は形の上では律法にのっとったやり方で処刑する。そしてアハブ王に、持ち主は処刑されたからぶどう畑を自分のものにしなさい、と言う。
アハブ王はそれを聞くとすぐにそのぶどう畑を手に入れようと出かける。アハブはナボテが本当は罪もないのに処刑されたことを知っていたのだろうか。
悔い改め
その時アハブはエリヤに出会う。そこで神の裁きの言葉を聞く。自分たちの悪行をあばかれる。そうするとアハブ王は今度は、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた。すぐに自分のしたことを悔いたというのだ。
アハブは主の目に悪とされることをした、と書かれている。彼ほど悪いことをした者はいなかったというほどに。それほど神に従わなかった王だった。しかしそれは妻イゼベルに唆されたからだというのだ。外国の偶像に仕えたことをイゼベルに唆されてしたことだった、ということだ。
妻にそうしろと言われるとその通りにして、エリヤに間違っていると言われるとすぐに悔いる。一体どんな王だったのだろうか。しかし悔いるということも実はなかなか難しいことだ。自分の間違いを認めるというのは実に難しい。その点ではアハブ王は立派かもしれない。
絶対者
王と言えどもやはり人間であり神ではない。王も神に従うべきである、支配者と言えでも自分の勝手に思いのままにしてはならない、神の言葉に従うべきだ、というのがイスラエルの考えだったはずだ。
しかしその王が神に従わずに、神の存在を無視して、あたかも自分が神になったように自分勝手にし放題をするところにいろいろな問題が起きてくる。そのためにまわり人が苦しめられる。
人が絶対的な力を持つことで、社会がおかしくなるように思う。誰かが神のようになることで、わがままに振る舞うことで周りのものは苦しめられていく。誰かの声が神の声となることでは間違いが正せなくなる。
先の戦争もそんな状況があったように思う。天皇を神として、天皇の命令ということで有無を言わせないことがあったと聞く。上官の命令は天皇陛下の命令だ、という科白をよく聞く。そして少しでも疑問を持つことも許されなかったと聞く。
人間
絶対者はだいたいわがままに振る舞うようだ。権力をもつと自分の都合のいいように振る舞ってしまう。自分の権力の振るえる範囲の中で自分勝手に振る舞ってしまうような面がある。それが人間なのかもしれない。
王は国の中で権力を振るい、社長は会社の中で、親は家の中で、牧師は教会の中で勝手気ままに権力を振るってしまう。小さなグループの中で、つまり自分の力の及ぶ範囲で自分の力にまかせて自分だけのわがままを通しているとすればそれはこのアハブやイゼベルと変わらない。
そしてそこでは何もかも自分の物としたいという欲望が出てくるらしい。自分の思うように、自分の自由の出来るものとしたいという欲望が出てくるらしい。あらゆる物を手に入れたくなるみたいだ。そして自分の思うように動く人も手に入れたくなる。
人は何もかも手に入れ、何もかも持っていたいと願うようなところがある。権力を持つ者はいろんなものを持ちたがるように思う。力任せに何もかもむさぼるように手に入れようとする。でも実はそうやって手に入れることでは本当の喜びはないようだ。いろんな物を自分が抱え込むこと、財産をいっぱい溜め込むことが人間としての喜びではないようだ。聖書も分けるようにということが言われている。弱い者や貧しい者、小さい者を大事にしろ、と言われる。きっとそこに人間の幸せ、喜びがあるのだろうと思う。
家の中でひとりでいばっていてもやっぱり嬉しくなんかない。周りの家族を怒り飛ばして自分の思うように動かしても全然嬉しくない。そうやって力ずくで自分の言うことを聞く家族を手に入れようとしてもそこには喜びがない。相手から力ずくでなにかを手に入れようとすることではなく、相手に自分からなにかを差し出す、自分のものを分け与えること、そこにこそ喜びがあるように思う。そしてそれこそが神が私たちに勧めていることでもあるのではないか。私たちは手に入れることばかり、そして今あるものを減らさないことばかりに熱中し過ぎているのかもしれない。
人間には神が必要なのだと思う。神がないところでは自分が一番上に立ってしまいわがままに力を奮ってしまう。人間には神という重しが必要なのだと思う。飽くまでも人間であるというところが大事なのだ。
一人の人間として神に聞いていく。受けるよりも与える方が幸いであるというキリストの言葉がある。むさぼる所にではなく、分け与えるところ、実はそこに喜びがあり幸せがあるのだと思う。