前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「養い主」 2006年7月16日
聖書:ルカによる福音書 12章22-34節
献金
大学を留年して、それでもどうにか4年生になって卒業論文を書くことになった最後の年、珍しくお金の長期計画を立てたことがあった。それまではなんとなく手許にあるお金で次の仕送りまで過ごすといった具合だったけど。
でも最後の年はあまりバイトもできなくてやっていけるんだろうかと一年弱のお金の計算をしたことがあった。
結構お金がなくて、外食もあまり出来ないってことがわかった。
それと、献金しなかったら余裕があるな、なんてことも思った。
大学に入ってすぐは、仕送りの中から経費を引いて、自分の自由に出来るお金の十分の一を献金してたけど、ある時から仕送りの十分の一を献金するようになっていた。最後の年には、そうしなきゃよかったかななんて思ったりもした。
でも結局は献金してもどうにかやっていけてた。ある時15万円で車買って、その車で事故をして、修理見積もりが28万円で、事故責任が50%となって、まともにいったら修理代が14万円かかるなんてことになりかねない時もあった。14万円なんてとても払えないどうしようと心配したけど、その時は修理工場のおじさんが中古の部品を使って安くしてくれて、結局2万5千円で済んだ。そんなことを思い出して守られてるのかなと思ってそのまま献金も続けた。
不安
先がどうなるか分からないと不安である。どうなるんだろうと悩む。悩んだからどうなるものでもないことで悩む。修理の金だけではなく、実にいろいろんなことで悩む。
自分で生きる?
例えば人間が自分一人で生きていくために必要なものを何もかも用意しないといけないとしたら大変なことである。
普段は大抵の人は自分の力で生きている、と何となく思っているのではないか。自分が生活するための金を自分で稼いでいるんだから自分の力で生きていると。確かにそうだ。しかし自分が食べるものだってどこでどう出来たのか分からない。野菜だって誰かが作っていたり、自分で作ることもあるが、どのように大きくなるのかどうして大きくなるのかよく知らない。水も空から降ってこなければ用意しようもないし、太陽だって自分たちの用意したものではない。
酸素だっていつもは気にしていないが自分が用意しているわけでもない。
生かされている
そんなことを考えていくと結局人間も一人だけで生きている訳ではないのだと思う。生かされている、空の鳥と同じ。生かされているから生きていける。そして聖書は人も神によって生かされていると語る。生かされているということは、頼りない感じだけれど、逆に言うと一人で自分の力だけで生きていかないといけないと気張る必要もないということだろう。
神は知っている
カラスはみんなから嫌われていた鳥だそうだ。そのカラスさえ神は養って下さる。そしてその神は私たちをカラスよりも価値あるものと見ておられるという。
私たちには自分の寿命も分からない、明日のことはわからない、でも分かっている方がいる。神は分かっている、神が分かっているんだからこの神を信頼して、神に任せていけばいいんだ。私たちが全てを知らなくてもいい。知らないからといって心配しなくていいということだ。
私たちはこうなったらどうしよう、こうならなかったらどうしようとはるか先のことまで心配する。でも先のことなんてそうそう思った通りにならないものだ。
幼稚園の時から自分の老後の計画までしたところでどれほどの意味があるだろうか。その通りに行くなんて思っているほうがどうかしているんではないか。ましてその時のことを今から心配したところで何の意味があるか。
しかし自分の力で人生を取り仕切っていかないといけないとしたらそれさえも心配する必要がある。誰にも頼ることも出来ないとすれば万全の体制を作っておく必要があるかもしれない。
悩みなさんな
悩みなさんな、神はあなたたちのことを大事に大事に思っているんだから、という。「あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか」「ましてあなたがたにはなおさらのことではないか」と言われている。
悩むことにエネルギーを費やしてしまうことで人間は疲れ切ってしまうこともある。悩みに押しつぶされてしまうことも。心配で心配で夜も眠れないことも、しかも何日も前からなんてこともある。礼拝の献金の祈りを初めて頼まれた時には一週間前から悩んでいた。
そんな私たちにイエスは語り掛けているのではないか、神があなたのことを心配しているのだ、あなたがどうしようかと思っていることを神がどうすればいいか考えているという。そして私たちの心配の届かないところまで神は心配していて、そのための備えをしているのだ。
神の国
私たちに必要なものは神が知っている、ただ神の国を求めなさい、と言われる。そうしたら私たちに必要なものは一緒に与えられるというのだ。天の父は私たちに喜んで神の国をくださるというのだ。
神の国ってなんだろう。ここを神の支配と訳している人がいた。神の国を求めるとは、神の支配を求めること、神とのつながりを求めることということだろう。
私たちは目に見えるものがいっぱいあることで安心するようなところがある。預金通帳にある程度残高があれば当面の不安はなくなる。決まった仕事があって、決まった給料がもらえるだろうと思えれば安心する。そして老後のための蓄えと、それなりの年金がもらえるという保障があれば安心できる。
そんな保障があれば生きていくことは出来る。確かに飢え死にすることもないだろう。でも私たちが生きると言うことは死なないということだけではない。確かに死なないということだけれども、死ななければそれでいいかというとそうではないだろう。生きるために必要なものは神さまがご存じであると言っている。それはすでに神さまが分かっている。神さまが用意してくれる。すでに用意してくれている。いつまで生きられるかなんてことは私たちが心配したって仕方ないことだというのだ。私たちの希望通りに生きられるなんてことはないことは誰だって知ってる。でももうちょっとと思うのが人情ではあるけれど。いつまで生きるかは私たちが決めることではなくて神さまが決めること、それは神さまの領域の問題なのだということだろう。
私たちを生かしているのは神だというのだ。私たちを生かすことは神の領域のことだということのようだ。私たちを生かすのは私たちのすることではなくて神のすることだと言っているようだ。
だから私たちがすべきことは、神の国を求めること、神の支配を求めること、神とのつながりを持って生きること、神の言葉を聞いて生きるようになることなのだ。
命は私が支える、だからあなたたちは私たちの言葉を聞いていきなさい、私の言葉に従って生きなさい、そう言われているようだ。
神の言葉に従って生きる、それはつまり愛し合い、いたわり合って生きるということだろう。
あなたのことは全部私が支えている、だからあなたは自分のことだけではなく、あなたの隣人のこと支えて生きなさい、神さまはそう言われているのではないか。