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礼拝メッセージより
「神の家」 2006年7月2日
聖書:ヘブライ人への手紙 3章1-6節
モーセ
ヘブライ人、ユダヤ人に向けての手紙。
彼らは律法を大事にしてきた。律法を守ることが神に従うこと、律法を破ることは神に従わないことだと思っていた。律法が神に繋がる手だてだった。その大事な律法を自分達に持ち帰ってきてくれたのがモーセだった。
モーセはいわば神の民を神の家へと導いていくような存在だった。神の家を管理しているような存在だった。それに対しイエスは神の家を建てたものだ、とこの手紙は言うのだ。神の家を造った者の方が、そこへ導くものよりも偉大である。律法という大切なものを持ち帰ってくれたモーセよりも、もっともっと偉大な者が現れた、神の家を造った主が現れた、それがイエスだと言うわけだ。
この手紙でイエスのことを大祭司であると言っている。祭司は神と人間との仲立ちをする者だ。モーセは飽くまでも人間であり神のことは少ししか分からなかった。しかしイエスは神であり人間であった。だから両方のことが分かるという完璧な祭司であるのだ。
そしてこの世界は神が造った。この世界のあらゆる者は神が造った。イエスは造った側なのだ。世界は神が造った神の家なのだ。そしてイエスはこの神の家を忠実に治めている。
私たちも神によって造られた。神によって造られた神の家であるというのだ。私たちが神の家としてふさわしくあるために、イエスは十字架にかかり、私たちを神の元へと呼び戻してくれた。神に造られた者として神に従って生きねばならない、ということらしい。
治める
注解書などを読むともっと難しい話しが出てきて何のことかよく分からない。この箇所のひとつひとつの言葉がどういう意味なのか何回読んでもよく分からない。
しかしとにかく、神が造られたこの世界、つまり神の家を、キリストと共にしっかりと治めることが、キリスト者と教会の務めであるということだ、と聖書教育には書いているのでそうなのだろう。
今世界はいろんな問題を抱えている。温暖化の問題もある。世界中の氷河がだんだんと消えていっているそうだ。海面が上昇してきて水に沈みそうな国もあるそうだ。ジャングルを切り開いて森が減って、石油や石炭をひたすら燃やして二酸化炭素をいっぱいはき出している。何万年か何億年か知らないが、長い時間をかけて太陽から受けて蓄えてきたエネルギーを、この100年位で猛烈に消費している。こんなんで一体いつまでもつんだろうかなんて思う。だったら二酸化炭素を出さない原子力という手もあるのかもしれないが、一度事故が起こったらどれくらい被害があるのかほとんど計算もできないというようなことになりかねないそうだ。そして今でも原子力発電所の現場では放射能でいろんな被害が出ているそうだ。そしてそのほとんどが外国人労働者だと聞く。
いろんなものを消費することで一時期ほどではないのかもしれないけれど、公害や環境破壊も続いている。誰かが戦争が最大の公害だと言っていた。戦争になるとそれまでのものを全部ぶち壊してしまう。害になろうが環境が壊れようがお構いなしになってしまう。そんな戦争も相変わらず止まるところを知らない。
食料がなくて、飢えて死んだり、抵抗力がなくて病気で死ぬ人もいっぱいいるそうだ。世界中で食料自体が足りないわけではなく、うまく分配することができないために飢える人がいる一方で、余って捨てるところもあるということだそうだ。
日本では飢えて死ぬ人はあまりいない。スモッグもなくなった、けれど毎年交通事故で何千人もの人が死に、3万人以上の人が自殺している。
そんなのは教会とは関係のないことなのか。
神の家
イエスは神の家を忠実に治めるという。そして私たちもそのイエスに従っている。神の家とはなんなのか。それは教会なのか。教会だけが神の家で教会の外は神の家ではないのだろうか。
神の造られたものは神の家だろう。すると神の家とは教会だけではなくこの世界全てということになる。私たちは神が造られたこの世界すべてを治めることも大事なつとめなのだろう。
社会問題、環境問題、戦争問題、政治問題、いろんな問題がある。どれもこれも人間に関係する大切な問題だ。私たち自身にも関係するし、私たちの隣人にも関係する大切な問題だ。
だとしたら、私たちはもっともっとそんないろんな問題に関心を持っていかないといけないのかもしれない。
私たちはイエスが治めている神の家に住んでいる。そこで共に生きるように生かされている。この神の家を、世界をしっかりと治めることも私たちに託された大切なつとめだ。そしてそれは隣人を愛することでもあるのだと思う。
マザー・テレサが「愛の反対は無関心」と言ったそうだ。この社会にはいろんな問題がある。そしてそのことでいろんな人が苦しんでいる。そのことに無関心でいることは愛さないことだ。愛さないことは最も神に逆らっていることなのではないか。