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礼拝メッセージより
「国と力と栄え」 2006年6月25日
聖書:歴代誌上 29章10-13節
頌栄
聖書の主の祈りには頌栄、頌栄とは神の栄光を讃える歌のことだそうだが、国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり、というのがない。この部分は後の教会が付け加えたものだそうだ。紀元2世紀の初めにはこの頌栄が付け加えられていたらしい。教会ができてすぐのころにはすでに加えられていたということだ。
しかしこの、汝のものなればなり、というのがどういう意味なのかよくわからない。汝のものというのは、あなたのものだろうというのはわかるけれども、その後はなればとなりがくっついているんだろうなと思いつつ、なればとなりはどういう意味なのかよく分かってない。昔から国語は苦手で、特に古文漢文は点数が取れなかったというトラウマもあって余計にわからないという意識が強い。それで教会に行き始めてしばらくはよく意味も分からないままに祈ってた。しかもここは口語訳聖書にも出てこない。大分後になって、新改訳聖書で、国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです、アーメン、という言葉がくっついているのを知って、初めてそういうことかとなんとなく分かった次第。
あなたのもの
この部分の元となったのは、歴代誌上29章11節のところのようだ。そしてこの祈りはユダヤ教時代から受け継がれてきた祈りらしい。
国も力も栄光もあなたのものだから、というのがユダヤ人たちの信仰だった。しかしそれは彼らが国を失ってしまい、他国の力に押さえつけられるという経験を通しての信仰だった。国を失って他国に支配されてから、どうしてこんなことになってしまったのかと思い返した。そしてその原因が、自分達が神から離れてしまったこと、主を信じ主に頼るという信仰から離れてしまったこと、そして国も力も栄光も主のもの、神のものであるということを忘れてしまったことだったと気づいた。そうやって自分達の国がなくなったことの原因を振り返ったことから旧約聖書のいろんな書がまとめられた。旧約聖書とはそういう自分達の国の滅びの振り返りの書物でもあるようだ。
そこで本当に大事なことは何だったのかという結論のひとつが、国と力と栄えとは、とこしえに神のものだ、何もかも神のものなのだということだったようだ。
全部神のものだ、私たちのこの命も神から与えられて、私たちに必要なものも神が与えてくれる。この世の物はすべて神のものなのだ、というのがいわばキリスト教の教えである。理屈としては知っている。
でも私たちはそれをどれほど信じているのだろうか。
慰め
ハイデルベルク信仰問答というのがある。ハイデルベルクという町で、宗教改革の時代に、若い人たちに信仰を教えるために作られた。
その問いの1は「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。
答えは「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」。
生きる時も死ぬときも私たちの唯一の慰めとなるのは、私たちの体も魂も私たちの救い主であるイエス・キリストのものであることだという。私たちがイエス・キリストのものであるということが、私たちの唯一の慰めなのだ、この信仰問答は一番最初にそう教えている。
私たちは自分が神のものである、イエス・キリストのものであると思うことがあるだろうか。
祈り
だから私たちは祈る。主の祈りを祈る。国と力と栄えとが、限りなく神のものだから、だから私たちは神に祈るのだ。主の祈りの最後にこの頌栄を付け加えたのはそんな信仰のあらわれだったのだろう。
祈りの時間とは大切なもののようだ。あまり偉そうには言えないが。ある本を読んでいると、祈りとは竹の節のようなものと書いていた。普段の生活を一時中断して祈る、祈ることで生活の中に区切りをついていく、それが竹の節のようなものだというのだ。そして節が出来ることで竹は強くなっていく。
説教が出来ない時、最近は毎週だが、出来てない出来てないと思う。週末になると、早くやらなければと焦る。そしていろんな本を引っ張り出して関係する所を読む。でも焦ったままずるずるやっていてもなかなか進まない。まとまらない。焦る気持ちのまま本も早く読んで、そうかと思うような所は書き出して、なんてやっていても気持ちはもっともっと焦って全然まとまらない、なんてことがよくある。
でもそのことを一旦止めて、横においといて、祈る時もある。そうすると落ち着いてくる。祈ると言ってもあれして下さい、これしてください、とべらべらしゃべるわけではなく、説教のことも含めていろいろと思いめぐらす、そうすると浮き足だっていた足が地面にくっつくようになる。そうすると新たな気持ちで説教の準備を続けることができる。なんて偉そうに言いながら、祈ればいいのにと思いつつ焦ったままってことの方が多い。
祈りが竹の節みたいだというのはそういうことなんではないかと思う。それまでのことをとにかく一旦止めて神と向き合う、そうすることで新しい空間が始まるのだと思う。神さまとか、主よ、とか言うだけでもいいんだと思う。神に語りかけて、その後はただ黙っていてもいいんだと思う。主よ罪深い私を憐れんでください、ということを繰り返し祈る人もいるそうだ。自分の口で、あるいは心で短い言葉で繰り返し繰り返し祈ることで、絶えず祈るという人もいるそうだ。そうやって私たちはどんな時でも神に心を向けることができる。そうするときっと何かが変わる。主よ憐れみ給え、って心の中でずっと祈ってみたらいい。騙されたと思ってやってみろって言ってるみたいだけれど、実際にやってみるときっと何かが変わる。人生が変わるかもしれないと思う。
祈ること
祈りとは何なのか、やっぱりよくわからない面も多い。何で祈らないといけないのか、祈りにどんな効果があるのか、なんて言われてもよく分からない。でもとにかく祈ることが大事なのだろう。祈ることは食事することと似ているような気がする。私たちは食事する時に、この食材はこんな栄養があって、体の中でこんな風に処理されて、体のこの部分がよくなる、なんていちいち知らなくてもいい。食べたいから食べる、食べると元気になるから食べる、食べないと元気がなくなるから食べる。
祈りも似ている。祈りたいから、祈ることで元気になるから、安心するから、支えられるから祈る。難しいことは分からなくても祈ることが大事なのだろう。
普段の生活を一旦止めて神の前に静まる、神と共に過ごす、それは私たちにとってとても大事な時間なのだ。祈ることで私たちは支えられ、私たちの人生は強くしなやかになっていくのだと思う。
すべては神のものだから、そして私たちも神のものとされているから、だから私たちは祈るのだ。どんなことでも祈るのだ。