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礼拝メッセージより
「救って下さい」 2006年6月18日
聖書:マタイによる福音書 6章13節
祈り
祈りってなんだろうと思う。人間って自然に祈るんだろうか。それとも教えて貰って祈るのか。未だによく分からないのが祈りだ。人前で祈る時なんかは、ついついかっこ良い言葉を使わないといけないような気になってしまう。気持ちは神さまの方なんて全然向いてなくて、周りの人がどういう風に聞いているだろうか、なんてことばかり心配になってしまう。途中でアーメンなんて言われた時はドキッとしてしまう。言われてもいいけど、その次に言われないと何かおかしなこと言ってしまったかななんて思ったり。だから一緒に祈りましょう、なんていうのがとても苦手だ。
ある時、人のことばかり気にして祈るのはやっぱりおかしいなと思った。やっぱり神さまに祈るんだから神さま向いて祈ろうと思った。神さま、って祈るときには神さまを向こうと思った。それまでは口では神さまなんて言いながら、心は隣の人の方を見ていた。神さまに向かってって思うとそれなりに祈りも違ったような気がする。綺麗にとか流暢に祈らないといけないとか、変なこと口にしちゃいけないとか、短い祈りは駄目なんじゃないかなんて気持ちがちょっと減ってきて、少し気楽に祈れるようになった気がする。
米子さん
祈りということでよく思い出すのが田原米子さんという人のことだ。お母さんが45歳の時に生まれた米子さんは中学まで身の回りのことは全部お母さんがしてくれて大事に育てられた。何でも自分を一番にしてくれないとニコニコ出来ない子どもだった。ところが中学の時にお母さんが急に亡くなってから突然自分を助けてくれる人がいなくなってしまった。かなりのわがままだったようで、やがて悪い友達に誘われるようになり非行少女になっていった。人間関係もうまく行かず心はすさんできて、いつも不安でイライラしてきた。死んでしまえと思って新宿駅で電車に飛び込んだ。
奇跡的に命は助かったけれども、気が付くと両足と左手を切断して、右手の指2本もなくなっていた。何で死ねなかったのかと悔やみ、家族や周りの人の親切もうるさく思うだけだった。家族も、あっさり死んでくれた方がよかったと思っているに違いないと思っていた。だからやっぱり死のうと思った。けれど自分で動くこともできず、病院の屋上から飛び降りることもできない。そこで眠れないからと言って睡眠薬をもらってそれをためておいて、それでもう一度自殺しようと考えた。
そのころ病室に学校の先生とキリスト教の宣教師がやってきたそうだ。最初は神にすがって生きるなんてことはばかみたいだ、と思っていた。教会の関係者が時々面会に来るようになった。ある時その人たちが持っていたテープを聞いていた。そのテープは「今のままのあなたでいいんだ」と言っていた。こんな自分でいいはずがない、と思ったけれども、次第に今のままの私でいいんだろうとか思い、これに掛けてみようかと思った。そしてテープが終わったときに、「神さま、助けて下さい」って言った。あくる朝、目が覚めたら晴れ晴れとした気分になっていた。それまでは頭はガンガンして、胸はムカムカして物をみることなんてできなかったのに、その時は目の前にあった本を手にとって起き上がった。頭痛がなくなったので読んでみたいと思ってふっと見てみると、「古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」と書いてあった。その言葉がすっと心に入ってきた。それから、指が3本もある、3本も残っていると思えるようになった。
祈りって何だろうって思うときに、この米子さんの「神さま、助けて下さい」ってふと漏らした言葉を思い出す。これが祈りなんだろうなと思う。全然かっこいい祈りじゃないし、ほんのひとことだけの祈りだけど、これも祈りなんだろうと思う。神さまのこともよく分かってなかっただろうし、聖書のこともほとんど知らなかっただろうと思う。けれどきっと心は神さまの方をしっかりと向いていたんじゃないかと思う。今の私たちの祈りよりよっぽど真実の祈りだという気がする。
ルカによる福音書18章に
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
という譬えがある。「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」という祈りこそ義とされるというのだ。
神さま助けて下さい、憐れんでください、という祈り、それは心からの言葉なんだろうと思う。それこそが本当の祈りなんだろうと思う。
誘惑に遭わせず
「神さま、助けて下さい」ってのは、主の祈りの中の「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という祈りに通じるところがあるように思う。
どんな誘惑も乗り越えていくのが立派な人間なのか、立派なクリスチャンなのか。どんなつらいことがあっても、これは試練なのだと言って受けとめていくという人もいる。試練を乗り越えていく力を、悪に負けない力を与えて下さいと祈る方がかっこいい。試練に遭わせないで下さい、なんて祈るのってあまりかっこよくない。でもまるで元気がないとき、全く無力な時、試練に遭わせないで下さい、悪い者から救って下さいとしか祈れないのかもしれない。
無力
ある祈りの本には、「祈りと無力さとは離すことができません。無力である人だけがほんとうに祈ることができるのです。」とか、「あなたの無力なことこそ、あなたの最善の祈りであります。」なんて書いている。
私たちは無力であることをとてもいやがる。力を持つことを求めている。強い力を持ちたがる。そして強い信仰心を求めているのかもしれない。
しかし件の祈りの本は、無力であることこそが祈りにおいて一番大切なのだというのだ。もう全部神に頼るしかないと自分の全てを神に投げ出す。
私たちの祈りは、私に足りないのは、あとはこれとこれとこれです、よろしくお願いします、と言うような祈りなのかもしれない。それよりも、もうなにもかもお願いします、もうどうしようもない私を助けて下さいという、それこそが一番の祈りなのかもしれない。
私たちは本当に無力です、わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってくださいと祈る、そうやって祈ることから、そうやって全部まかせることができるから、全てを支えてもらえることで私たちは安心して生きていける。逆に安心して自分の力を発揮することができるのだろう。
心を全部開いて祈っていこう。無力さも駄目さも全部開いて祈っていこう。神はそんな私たちを根っこから支えてくれるのだ。