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礼拝メッセージより
「ゆるし」 2006年6月11日
聖書:マタイによる福音書 6章12節
負い目
誰かに何かをしてもらったらお返しをしないといけないとよく言われる。贈り物をもらった時も、親切にしてもらったときも、すぐに何かお返しをしないといけないと。それがしきたりなんだろうなとは思うけど。ありがとうだけじゃいけないのかな。お返しは必ずしてくれた相手に、それもできるだけ早くしないといけないのか、何かしてくれた感謝の気持ちを今度は違う誰かにお返ししていけばいいんじゃないか、なんて思う。本当は思うだけで何もしてなくて、こんなにぐだぐだ言うのもお返しをするのが面倒でまともにお返しをしない口実にしているだけ、そんな自分を正当化しているだけ、という気もしないでもないけれども。
しかし実際問題、そんなにきっちりきっちりお返しが出来るのかというと必ずしもそうではないように思う。いつもいつも何事につけてもきっちりとけりをつけて生きているわけではないように思う。何かを貰ったときに必ずきっちりとそれに見合っただけのお返しをしているだろうか。
毎日毎日きっちりとお返しをしようとしたらどうなるだろうかと思う。あれをしてもらった、これをしてもらった、あそこにお返しを、ここにお返しを、なんて言ってたら息が詰まりそうだ。お返しができることならばできるのかもしれない。でも世の中お返しができることだけではないだろう。
子どもが親からしてもらったことに対して、全部親にお返しをしないといけないなんてことになったらどうなるのだろうか。親だけではなくいろんな人の世話になりながら、いろんな人に大切にされながら私たちは生きてきた。でもだいたい基本的にお返しなんてしてない。きっとできもしない。
あるいは私たちが意識的に、あるいは無意識に傷つけて来た人たちに対して、全部謝って来たわけではないだろう。いろんな人を傷つけ、いろんな悪いこともしてきたし、罪も犯してきた。それら全部をきっちりとけりをつけてきたわけではない。できることはしてきた、というよりも多少はしてきたと言った程度。けりのついていないことがきっといっぱいあるだろう。
そんな、お返しをしていないという負い目、赦しを貰っていないと言う負い目を私たちはいっぱい持っているだろうと思う。その負い目を毎日感じている人もいるだろうし、日常はあまり感じていない人もいるだろう。
戦争の時に自分がしたことを神さまは赦してくれるだろうか、と若い牧師に聞いてきた人がいたそうだ。何十年もその負い目を持って生きてきたのだろうと思う。毎日毎日そのことに苦しんでいたのかもしれない。あるいは交通事故で、図らずも相手が亡くなってしまったという話しも聞いたことがある。
形の上では、金銭的にも社会的にも既にけりはついたことだとしても、なお自分に負い目を感じてしまうようなこともある。人生ってそんな負い目がいっぱい積み重なっているようなものかもしれない。自分にはいっぱい貸しもあるからそれで帳消しに、とならないから大変だ。
私たちのこの命はそもそも貰った物だ。神から貰った物だ。それに対してお返しのしようもない。神に造られた者なのに、神の言うように生きていないという罪に対して、私たちは償いようもない。
もしそれが赦されないのなら、私たちは生きていけないのだろう。しかし神は私たちを赦してくれている。キリストによって私たちを赦してくれた。赦してくれたけれどもまた私たちは毎日罪を犯し、負い目をいっぱい作り続けながら生きている。だから毎日その負い目を赦して下さいと祈れと言われているのだろう。
もう神に祈るしかない。全部けりをつけて回ることもできない。形の上ではけりをつけたとしても、尚自分の心の中に残る罪悪感はもうどうしようもない。ただ祈る続けるしかないように思う。そしてそこで神の赦しを聞いていく。
赦されて
そして神に赦されているから、自分に対する負い目を赦していくのだろう。そして赦していくことは赦されていくことでもあるのだろうと思う。
赦さないことはとても辛いことだ。とても苦しいことだ。実際にはとても赦せないと思うようなこともいろいろある。でも赦せない思いをずっと持ち続けることはとてもエネルギーのいる苦しいことでもある。あいつを赦してなるものか、絶対赦さないといった憎しみをずっと持ち続けることはずっと重荷を負い続けるようなことでもある。赦すことでその重荷が軽くなる。
そう思いつつやはりなかなか赦せないということもある。一体どうしたら赦せるのだろうか。やっぱり自分のことをよく見つめるということなのかもしれない。相手を責めるときや赦せないと思うときは自分をどこか棚にあげている。自分のことはさておいて相手の罪や間違いや駄目さを見つめている。自分をどこかに置いて相手の悪いところを指摘するのは結構気持ちよかったりするのでなおさらそうしがちだ。近頃の若い者はけしからん、って言うのは結構爽快な気分でもある。でもそんな時自分達が若い頃に同じことを言われていたことは棚にあげてしまっている。自分のことをしっかりと見つめること、自分の罪や自分の負い目をしっかりと見つめること、それがあって初めて私たちは赦すことが出来るのだろうと思う。
自分自身の傷の痛みを感じて初めて相手の痛みを想像できるように、自分の罪や負い目という痛みを感じて初めて相手を赦すことができるのだろう。だから、あなたはどうして赦さないの、赦しなさいよ、なんて本当はそうそう簡単には言えないのかもしれない。
到達点
「自分の罪責や負い目に本当に気づくということ、それは信仰の出発点ではなくむしろ到達点」(聖書教育)なのだ。
自分をしっかりと見つめること、自分の罪や負い目をしっかりと見つめること、それが信仰の目指すところなのだ。そしてそんな罪を赦してくれる神を見上げること、それが私たちの信仰だ。きっとそこが土台なのだ。自分が罪人であること、赦された罪人であること、それが私たちの土台なのだ。そしてそこを離れてはいけない。罪人であることから離れてしまうことで私たちは人を責め、赦さない者となってしまう。だから離れてはいけないのだ。罪人であることは苦しいことでもある。でも一緒に苦しむ、一緒に悩む、一緒に笑い一緒に泣く、そして一緒に赦しを祈っていく、それこそが私たちの目指すところだ。