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礼拝メッセージより
「霊の実」 2006年6月4日
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 5章16-26節
ペンテコステ
今日はペンテコステ。僕が初めて教会に行ったのは5月14日だったがペンテコステだった。初めての礼拝で、こんな性格だからすごく緊張して、その時どんな説教だったのか、聖書のどこを読んだのか全然覚えていない。その日がペンテコステだったというのも、後になって週報を見たらそう書いていたから分かったことで、その日には何が何だかさっぱり分かってなかった。とにかく記念すべき初めての礼拝だった。
ペンテコステとは五旬祭。50日目。過ぎ越しの祭りから、つまりイエスが十字架につけられ、復活してから50日目。ユダヤ人にとっては麦の収穫を祝うお祭りであった。
ペンテコステにどんなことがあったのかというのは使徒言行録の2章に書かれている。その日弟子たちに不思議なことが起こった。聖霊がやってきて、みんなが突然外国の言葉をしゃべりだした。そして弟子たちがイエスさまの証人となった。証言を始めた。その証言の中身がみんながびっくりするようなものだったということ。弟子たちが知らないはずの言葉で、「神の大きな働き」(11節)を語った。それを聞いてみんなびっくりしてしまった。
人生に挫折して、ほとんど死に掛けているような弟子たちが、聖霊によって立ち上がった。聖霊が彼らの心の中に働きかけて、彼らの力を引き出させたのだ。それがペンテコステの出来事だった。
聖霊の働き
聖霊なんて聞くと、霊なんて言葉があると何だか幽霊とか霊媒師とか超常現象とかいうことを想像してしまう。あなたの方には背後霊がいます、ひいおばあさまが見えます、なんて言われそうな不思議な世界に引き込まれそうな気がする。
使徒言行録でも、弟子たちがこの日突然外国語を話し出すというような不思議なことが起こったと書かれている。日常では起きない、理屈では割り切れない不思議な出来事が起こるのが聖霊の働きのように思ってしまいそうだ。
コリントの信徒への手紙一12章3節「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」神がいることが分かる、イエスが救い主であると分かる、少しでも分かる、それは聖霊の働きがある、ということ。
神のことを私たちは聖霊によって分からせてもらっている、というのだ。必死に勉強したら分かるとか、一所懸命に修行したら分かるとかいうことではない。ただ聖霊によって、つまり神が働きかけてくださることによって分かるというのだ。
何で神さまがいるなんて信じてるのか、それは聖霊がそうしたから、と聖書に書いている。聖霊とは神さまの霊、キリストの霊、あるいは神の力、霊として私たちの中に働く神、といってもいいと思うけれども、要するに、神さま自身が僕らにわかるようにさせてくれたから、神さまがいることも分かるし、神さまのことを信じている、と言うことらしい。そしてそれ聖霊の働きなのだ。
愛
ペンテコステの日、弟子たちがいろんな国の言葉で話すという不思議な出来事が起こった。でもそんな不思議なことを起こすことが聖霊の一番の働きではない。確かに聖書にも異言とかいうことについても書かれている。そして何かに陶酔して、言葉でもないような不思議な言葉を喋ってると、いかにも霊にみたされました、という気もしないでもない。異言と言われる不思議な言葉を喋れるようになることこそが、聖霊に満たされた証拠であるようにいう人もいないわけでない。
しかしパウロの書いた手紙には異言についてこんなことが書いてある。コリントの信徒への手紙一14章2節「異言を語っている者は人にではなく、神に向かって語っています。それは誰にも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。」14章19節にも「しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。」つまりパウロは、教会では自分がこんなに異言を語れると見せることよりも、相手に理解できる言葉を語る、相手が分かることを話す方が大事だと言っているのだろう。俺はこんなことできるんだぞとか、こんなことも知ってるんだぞ、こんなに何でも分かってるんだぞって自慢したくなる。でもそれよりも、少しでも相手に分かる言葉、相手のためになる言葉を語る方が大事なのだということだろう。ちょっと耳が痛い。
霊の実
そしてガラテヤの信徒への手紙5章22、23節では「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」と言っている。
どうも異言で話させることが聖霊の一番の仕事ではないらしい。何かとんでもないすごいことができればうれしい、人に出来ないことが自分だけ出来るようなればいいなと思う。空中に浮くとか、誰にもできないようなことが出来るようになれば自慢できる。でも聖霊は、神の霊はそんなことをさせて人の注目を集めさえようとはしていないみたいだ。人がびっくりするようなことをする力も聖霊にはあると言うことも事実だろう。でもここに出てくる霊の結ぶ実を見ると、みんなをあっと言わせるようなものは何もない。しかも一番に愛がある。愛するようになることが聖霊の一番の働きであるらしいし、教会が一番目指す所なのだろう。何か分からない不思議な出来事を起こすことが聖霊の働きというよりも、愛する者になること、喜ぶ者となること、平和なものになること、寛容な者になること、親切なものになること、、、、それこそが聖霊の働き、霊の実なのだ。私たちがそのようになるために聖霊は今も私たちに働きかけてくれている。それは、私たちが隣人に接する時に必要なものばかりという気がする。これはどれも、自分ひとりで持っていても意味のないものなのではないか。私たちはこんなに愛を持ってます、平和や寛容や親切や善意を持ってますって言ったって、そんなもの自分ひとりで握りしめていても何の意味もない、相手との関係の中で、隣人との関係の中でこそ意味があることだ。
反対に19節以下に書かれている肉の業というのは相手との関係を壊すことばかりだ。聖霊は隣人との関係を大事にするために働いているような気がする。聖霊は、私たちが立派になるため、偉くなるため、信仰深くなるために働いているのではなく、隣人との関係を大事にするために働いている。そしてそこに教会が生まれた。私たちが愛する者となるために聖霊は今も私たちを助けてくれている。