前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「糧を」 2006年5月28日
聖書:マタイによる福音書 6章11節
食事を
そう言えば食事を与えて下さい、なんて真剣に祈った事ないなあ。空腹でたまらないなんて経験もそんなにない。久住に虫を取りに行く友達について行って、朝食なしで久住山に登ったときはさすがに、腹減った、何か食べたいと思ったけど。こんな話しをすると、戦時中はこんなに大変だったという話しが、学びの分かち合いの時間に出てくるんだろうなあ、なんて思う。
必要な糧を今日与えて下さい、って主の祈り以外では祈る事ないなあ。
エピウーシオス
ここに必要な、と訳されている言葉がある。いつも祈る主の祈りでは日用のとなっている。他にも、日ごとの、将来の、次の、明日の、というふうにいろんな解釈があるそうだ。どうやら新約聖書の中ではここにしか出てこない言葉らしい。
必要な糧とは、毎日の食事のことだけではなく、命のパン、精神的な糧のことも含む、あるいは晩餐式のパンのことを指しているとか、終わりの日のパンのことだとかいうような難しい解釈もある、というようなことをいろんな参考書を見ると書いていたが、どうもさっぱり分からない。やっぱり私たちに必要な今日の食事のことなんじゃないかと思う。
しかしそうすると、主の祈りで初めの方は、御名とか御国とか御心とか、神に関することを祈って、そして後半は自分達のことに関することを祈る、その祈りの最初が食べ物を与えて下さいという祈りなのだということだ。自分のことを祈る一番最初の祈りが食事のことなのだ。
あまりかっこよくない気もする。私たちの信仰を守って下さいとか、私たちをおゆるしください、とか言うならまだかっこもつくけど、自分に関する初っぱなの祈りが食事を与えて下さいなんて、という気もする。
でもそれは私たちが食べる事にほとんど困っていないからなのかもしれない。今日の食事を食べられるだろうか、なんて毎朝悩む事もない。冷蔵庫の中には大抵何か入っている。誰が料理してくれるのだろうか、誰かしてくれないだろうかと思う事はあっても、食事そのものができるだろうかと真剣に悩む事はほとんどない。なのにこんな祈りをするのは何だかおかしいという気にもなってくる。
今日
イエスは、その必要な糧を今日与えて下さいと祈れという。いつもの主の祈りでは、今日も、となっているが原文では「も」はなく、新共同訳でも「も」はついていない。昨日も一昨日も与えてくれた。ずっと前から与えてくれている、そして今日もよろしく、というのとはちょっと違うのだろう。昨日までどうだったかなんてことを考えられない、差し迫っている今日の食事をどうか与えて欲しいという祈りなのだろう。昨日まではどうだったから今日もきっとこうなる、そして明日はこうなって将来はこうなる、と計算し予想するのが常だ。宵越しの金は持たない、というタイプの人もいるそうだが、そんなことしていてはめちゃくちゃなことになるのも事実だろう。しかしイエスは今日与えて下さいと祈るようにという。とにかく今日の事を祈れと言っている。
主の祈りのもう少し後の6章25節からの所では、思い悩むなということが言われている。明日の事まで思い悩むな、明日の事は明日自ら悩む、その日の苦労は、その日だけで十分である、と言われている。必要な糧を今日与えて下さい、と言うのはこのことと関連しているような気がする。今日のことを心配しなさい、今日のことを祈りなさい、明日のことは明日になってから悩めばいい、ということなんだろう。必要な糧を今日与えて下さい、というのは、とにかく今日一日を生きれるように、食事のこと、あるいは諸々の今日一日を生きるために必要な物を与えて下さいと祈るということだ。そしてそう祈れというのは、今日一日を精一杯生きなさいというでもあるのだろう。今日を、今をしっかりと生きるようにということなんだろう。
今日も明日も明後日も、私たちは多分生きていけるだろうと思っている。ずっと先の事は分からないけれど、一週間や一ヶ月、一年くらいは多分生きていけるだろうと思っている。今日一日をどう生きるかなんて考えることはあまりない。それは幸せなことかもしれない。しかし今日一日を生きる事ができた、なんて感激することもないなあと思う。本当は今日一日を生きる事は当たり前なことではない、今日一日食べられる事も本当は当たり前の事ではないのかもしれない。そのことをこの祈りは思い出させようとしているのかもしれない。私はなんとなく毎日が過ぎているように思っているけれども、本当はそうじゃないんだぞってイエスは言っているのかもしれないと思う。
なんとなく恋人とデートすることを思い出している。今日恋人と過ごす、今一緒にいることに意味がある。明日も明後日も会えるという約束があってはじめて今日が楽しいデートになるわけではない。明日がどうあるかよりも、今日、今を一緒にいることが楽しい。
今日の食事を与えて下さい、今日生きるために必要なものを与えて下さい、と祈るということは、そうやって神との今日の関係を持っていくということでもあるのだろう。今日神に生かされていることをもう一回確認する事、それが必要な糧を今日与えて下さいという祈りなんだろうと思う。
わたしたち
主の祈りの前半は神に関することだった。そしてここから後半が始まる。そして後半では『わたしたち』のことを祈るようにと言われている。わたしだけのことではなく私たちのことを祈れというのだ。
今日のところでも『私に必要な糧を』ではなく、『わたしたちに必要な糧を』今日与えて下さいなのだ。私たちって誰の事なんだろうか。私たちの家族、私たちの教会、私たち人類のことでもあるのだろう。
今でも飢えて死んでいる人がいっぱいいるそうだ。なのに食べ物が余って捨てているところもある。食べ物の分配の仕方に問題があるということを聞く。そんなことを聞くと人間てあまり偉くないんだと思ってしまう。なんて結局他人事のように思っている。けれど食べ物がなくて実際に苦しんでいる人がいるんだろうなと思う。何をしたらいいのか、何ができるのかすぐには思いつかない。
祈るって事と行動する事とは同じ事なんだと思う。コインの裏表みたいな、分けられないことだと。私は祈る人、あの人は行動する人なんてことはない。祈る人は行動する、祈りが行動する力になる。
わたしたちに必要な糧を今日与えて下さい、と祈るということは、私たちみんなに食べ物が与えられるように神に願うこと、と同時にそのために私たちに何ができるかを考え、行動することでもあるのだろうと思う。
今日を神と共に生き、また隣人と共に生きる、主の祈りってのはそんな祈りなんだろう。