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礼拝メッセージより
「みこころ」 2006年5月14日
聖書:マタイによる福音書 6章10節
別世界?
御国が来ますように、と言うのがイエスが教えてくれた二つめの祈りだ。
マルコによる福音書1章15節では、イエスは宣教のはじめに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたと書かれている。神の国はすぐそこまでやってきているとイエスは言ったのだ。そしてキリスト教会が出来た初めの頃は、キリストがまたやってきて世界を支配するという神の国がすぐにでもやってくると考えられていたらしい。明日か明後日かというような切羽詰まったような気持ちでもあったみたいだ。明日でなくてももうすぐなんだからということであれば、今がとても苦しくても耐える事ができるような気がする。
御国がきますようにと祈ると言う事は、もう耐えられそうにもないから早くやってきてください、この今の状況を全部なくしてください、全く新しいものに全部変えてくださいということなんだろうか。
何月何日に終末がくる、イエスがやってくる、なんてことを言う人がいる。そんな宗教もある。もうすぐ終わるんだから今のこの生活はなくなるんだから、この世の物は全部捨てなさい、財産も処分して献金しなさい、なんて話しが時々出てくる。確かに終末になって私たちの世界がまったく変わってしまうならば、私たちがどこか別の世界に、ユートピアに移されるというのであれば、この世の持ち物なんかいくら持っていても仕方ないことになる。
御国が来るようにと祈れと言われたのは、そんな時を待つようにということなんだろうか。この世と決別する日を期待して、ひたすら待ち続けるということなんだろうか。時々今はこんなに大変だから全部まっさらになったらどんなにいいだろうかなんて思う事も確かにあるけれども。
ルターは、明日で世界が終わるとしても私はりんごの木を植えると言ったという話しがある。アッシジのフランチェスコもこんな話しがあるそうだ。フランチェスコが畑を耕している時に通りかかった人が、「フランチェスコさん知らないのですか、この世は今日滅びるんですよ」と言った。そうするとフランチェスコは「おお、そうなら私は急いでこの畑を耕してしまおう」と答えたそうだ。
御国がくるというような時、この世のものを全部捨ててしまえる時が来るんだ、なんて思う。この世は面倒なことばかりだから早く捨ててしまいたいと思っているわけだ。しかしルターやフランチェスコはどうもそんな気持ちはないみたい。彼らにとって御国がくるということはイエスがやってくる、神の直接の支配がやってくるということで、この世の物がなくなるかどうかなんてことは全然関係ないみたい。僕なんかはこの世とは全く違うすてきな綺麗な世界がやってくることを願うけれども、彼らにとってはただ神がやってくる、イエスがやってくることのようだ。そこが綺麗な世界なのか、今の世界とは全く別物なのか、そんなことには全然関心がないみたいだ。ただイエスがやってくる、神の完全な支配がやってくること、それだけのようだ。だから彼らにとっては御国がくる時、終末がくる時は自分の仕事を投げ捨てる時ではない。
御国がくるように、というのはつまり別世界がやってくることよりも、神の支配が来るようにということだろう。自分の周りの世界を変えてくれということよりも、自分自身を神の支配の中に入れて欲しいということのような気がする。
ルカによる福音書17章20節以下にこんな話しがある。
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
御国が神の国がどういう形で来るのか、よくは分からない。けれどもかつてイエスがやって来た事自体が御国がきたことでもあるように思う。神の国があなたがたの間にある、とイエスは言った。御国とは見える形ではなく私たちの間にあるもの、それはつまり愛すること思いやること、そういうところにあるということなんだろうと思う。神に愛され、互いに愛し合う、そこは神の国と言ってもいいようなものなんだろう。神の言葉が届いているところ、神の言葉に従って生きているところ、そこには神の国がやってきているのだ。ほんの少しだけなのかもしれない、けれどもきっとそこに御国がやってきているのだろう。
みこころ
イエスは御国が来ますように、に続けて、御心が行われますように、天におけるように地の上にも、と祈れと言われた。
御心は何なのか、何が御心なのか私たちには分からない事が多い。何か自分に都合のいいことは御心だと思い、都合の悪い事は御心だとは思いたくない。
御心が具体的にどういうことかよく分からない、けれども神が私たちを愛してくれていて、憐れんでくれていて、いいものを、最善を尽くしてくださっていることを私たちは知っている。御心が行われますようにと言うのは、神が最善を尽くしてくれていることを私たちが信じていけますようにということでもあるような気がする。私たちにとっては理解できないようなこともいっぱい起こってくる。思わぬ事がいろいろ起こってくるのが私たちの人生だ。しかし見えないところでそんな私たちのすべてを支えてくれている神がいること、そして最も良い物を、もっともふさわしい物を私たちに与えて続けてくれるという神の御心を行ってくれるように、そしてそのことを信じていけるように、それが御心が行われますようにということなんだろうと思う。
祈りと行い
そして私たちは祈る事で神が最善を尽くしてくださっていることを知り、そのことを知る事で私たち自身も最善を尽くす事ができる。祈る事で行動できるのだと思う。神が全部支えてくれていることを知る事で、私たちも力を発揮できるのだと思う。神は私たちにどんな力を発揮する事を望んでいるのだろうか。神が地上でも御心を行うために私たちに何を期待しているのだろうか。御心が行われますようにと祈ることは、私たちが何をする事が御心なのかを聞いていくことでもあるのだろう。神は私たちを通して御心を行おうとしているのではないか。
この世の中には愛を必要としている人がいっぱいいる。食事を必要としている人もいっぱいいる。薬を必要としている人もいっぱいいる。そんな現実の中で神の御心はどこにあるのだろうか、神がその御心を行うために私たちに何を期待されているのだろうか。主の祈りってのはそれを聞いていく祈りでもあるような気がする。