前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「あがめる」 2006年5月7日
聖書:マタイによる福音書 6章9節後半
御名
御名をあがめさせたまえ、って毎週礼拝でも祈っている。ただ単純にというか何も考えずに祈っているって方が正しいかな。だからそれってどういうことなんだろうと考えるとよく分からない。
御名というのは神の名、では神の名前って何?モーセが神に名前を聞いたときにはあってあるものと言われた。そしてイエス誕生の時には、インマヌエルと呼ばれると言われている。神我らとともにいます、と言う名で呼ばれると言われている。名は体を表すなんていわれるが、この神の名は神の性質というか状態を表しているようだ。御名があがめられますようにというときの御名は、神自身があがめられるようにというようなことなのだろう。
御名をあがめるとは、神を聖なるものとする、神自身を聖なるものとするということだ。それが第一の祈り。天の父よという呼びかけに続いての最初の祈りが、この御名があがめられますようにという祈りだ。つまり祈りとはまず第一に神を聖なるものとすること、そのようにさせてもらうことだ。
あがめる
この聖とするというのはもともと分ける、分けておく、特別に分けてとっておくという意味のことばだそうだ。言ってみれば神を人と分けるというようなことらしい。神は神であって、人の持ち物でもなく、人の道具でもない、そうなっては神ではなくなってしまう。神は神として人間とは違うものとして分けておくというようなことでもあるらしい。
実際は、あれしてください、これしてくださいって願う事が多い。いつしかまるで私たちの願いを叶える道具のように思ってしまうとしたら、それはもう神ではなくほとんど人間の召使いにしてしまっているようなものだ。
そんな風に神をまるで自分の所有物のようにしてしまうのではなく、神を人間のものではなく、特別に分けておく、神をあくまでも神としておく、それが聖なるものとする、聖別するということのようだ。御名があがめられますようにというのは、神がその聖なるものとされるように、人間のものとせず飽くまでも神としていくということなのだろう。
神だけを神とするなんてそんなの当たり前、神以外の者を神とするなんてそんなことはしてない、という気もするが果たしてそう言い切れるかどうか。御名をあがめること、つまり神を聖なるものとするということは、神だけを聖なるものとすること、神だけを神として区別して、その他のものは神とは違う、神ではないのだとすることでもある。
神を信じているといいながら、お金を信じているなんてこともよくある。昔初詣に行ったときには、成績があがるように、病気しないようにと祈った。そしてそれだけじゃなくて金持ちになるようにと祈ったもんだ。誰かがお金で買えないものはないと言っていたそうだが、そういうのを聞くと何という奴だなんていいつつ、案外お金の力を神と同じくらい、あるいは神よりも信じているなんて時もある。神を信じられないことよりもお金がなくなることの方を嘆くなんてこともある。
あるいは自分はこんな立派なことをやってきたとか、こんなにみんなから支持されているとか、こんなにいろんなことを知っている、なんてことを頼りにすることもある。神を信じて安心するよりも、周りの人と比べて自分は優れているとか、劣ってないとか思って初めて安心するなんてこともある。
結構神よりもお金とか自分の名声や業績の方を神にしているということなんじゃないかと思う。
ルカによる福音書18章9節以下にこんな話しがある。
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ファリサイ派の人は神に祈っているようでただ自分を誇っているだけ、神を頼りにしているようで自分の業績を頼りにしている。神に祈っているようで本当は自分の業績や自分の信仰心に祈っているようなものだ。
御名をあがめるということは、神だけを神とする、神以外のものを神としないことだ。そしてそれは聖なる神を通して自分自身を見るということでもあるのだろう。聖なる神に対して自分は罪人であるということをしっかりと見ていくことでもあるように思う。神と自分という見方に徹することで自分の姿をしっかりと見ていく、それがまた御名をあがめるということでもあるように思う。神だけを神としていく、それ以外のものを神としない、神のように信じることも頼る事もしないということは、自分の業績も名誉もお金にしがみつくのをやめて、手を離して神の前に立つ事なんだろう。地位や名誉やお金を信じるのではなく、神だけを信じるものとなる、そうさせてほしい、私にとって神はあなただけなんですという、御名があがめられますようにという祈りはそんな決意でもあるのかもしれない。何もかも脱ぎ捨てて裸で神の前に立つということでもあるような気がする。
そうするとそこではこの徴税人のように、罪人のわたしを憐れんでください、という言葉しか出てこないのかもしれない。
主の祈り
主の祈りはイエスがこういう風に祈れと言われているから祈っているわけだが、そう考えるとこの祈りは初っぱなからけっこうすごい祈りでもあるような気がする。御名があがめられますようにというのは、神はあなただけだ、私はあなたしか神としない、他のものには頼らないという決意でもあるような気がする。イエスはそういう風に祈れと言った。つまりそういう風に生きなさい、神を神だけを神として、神に造られたものとして、神をなかなか信じられない罪人として、けれどもこの神に愛されているものとして生きなさい、イエスがこう祈れと言ったのはそれ生きる事が私たちにふさわしい生き方だからなんだろうと思う。だからただ覚えてすらすら言うのが大事なのではなく、しっかり噛みしめて祈ることが大切なんだろうと思う。