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礼拝メッセージより
「父よ」 2006年4月30日
聖書:マタイによる福音書 6章9節前半
祈り
祈りって何なのだろう。昔近くの神社の祭りがあったときには小学校は休みだった。田舎なのでそこの地域全部の祭りでもあった。そしてその日は神社に行ってお祈りすることになっていた。神社の境内で野球することはあっても、正式に神社に行くのはその祭りと初詣くらいだった。
そしてその正式に神社に行くときには祭殿の前でお祈りをすることになっていたのだが、成績があがりますようにとか、元気でいられるようにとかいうふうに祈ったことしか覚えていない。何を祈ったらいいのか分からなかった。だいたい祈りたいという気持ちもなかった。そして神社の神さん、神さまじゃなくて神さんって言っていたと思うが、その神さんが何者なのか、あまりにもわからなかった。
ある時神社の周りで遊んでいたとき、神社に誰もいなかったので奥に入っていったことがあった。神さんてなんだろうか、一番奥には何があるんだろうと思って勝手に入っていった。そしたらそこには大きな鏡みたいなものが置いてあったように記憶している。神さんは僕にとっては何ともつかみどころのないもので、祈ることもただただもぐもぐひとり言を言っているという感じでしかなかった。そんなこともあって中学くらいになるとお祭りにも初詣にも行かなくなってしまった。
教会に行くようになってからも祈るってことがどうも苦手だ。特に人前で祈るなんて大嫌い。何かあるごとに祈りましょうなんていう人が時々いるけれど、そんな牧師もいるみたいだけど、僕はとうていそうはなれないだろうなと思う。何であんなに自信満々に祈れるのかななんて思う。人前で祈る時って神さまに向かって祈っているよりも、なんだか周りの人に聞かせようとしていることが多いような気がする。だから綺麗な言葉で、流暢に、整然と、そして長く祈らないといけないような気持ちがある。神さまに向かって祈っているんだ、という気持ちがないわけではないけど、それよりも周りの人のことの方が気になることが多い。祈ってはいるけれど、祈りの言葉は口にしているけれど、案外神社でもごもご言っていた時と同じように、神さまがよく見えてないのかもしれないと思う。誰に祈っているのかよく分からないままに何かしゃべっているのかもしれないと思う。
父
イエスは祈るときにこう祈れと言った、それは「天におられるわたしたちの父よ」だ。神に向かって祈るときに父よと祈れと言った。子どもが父に向かって話す、祈りとはそんなものだということだろう。
新約聖書はギリシャ語で書かれている。しかしイエスはヘブライ語に近いアラム語をしゃべっていたそうだ。ここで父よと書かれている言葉はさっきも言ったようにギリシャ語で書かれているということで、これはイエスが言ったアラム語の父よという言葉をギリシャ語に訳したパーテルという言葉なのだそうだ。
なんでそんな訳の分からないことを言っているかというと、ではもともとイエスは何という言葉を使ったかというと、アバという言葉らしい。マルコの福音書のゲッセマネの祈りのところでもイエスは「アバ父よ」と祈っている。この父よというのはアバの意味を知らない人に対する説明の言葉だろうということらしい。どうもイエスはアバと祈っていたようなのだ。だから弟子たちに教えた祈りでもイエスはきっとアバと呼びかけて祈れと言われたのだと思う。
そしてこのアバという言葉は、まだうまくしゃべれない幼児が父親に向かって呼びかける言葉なのだそうだ。今で言えばパパとか父ちゃんあるいは父さんというような感じだろうか。とても日常的な言葉、親しい親子の間で使われる言葉で祈るようにとイエスは言われたのだ。父よ、とはいうけれども、お父様、父上というかしこまった、まるで座敷で正座して深々とお辞儀をするというような言い方ではなく、幼子が父親の膝の上にちょこんと座って、父ちゃん、あのね、今日こんなことがあってね、と話すように祈れと言われているのだ。
全くもってびっくりすることだ。そんな風に祈っていいんだろうかと思うようなことだ。畏れ多いという気もする。
子
しかしそう祈れとイエスが言うのは、私たちがすでい神の子とされているからだろう。父の膝にちょこんと座っているように、神に抱かれているから、だからそのように祈って良いんだ、そのように祈りなさいと言われているのだろう。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:14-17)
天にいる
天にいる父である、天地のすべてを支配している神である。天におられるわたしたちの父である、しかしそれは神が天というはるかかなたにいるということではなく、天も地も支配しているということだろう。その神が私たちの父となってくださっている。私たちはその父の子どもとされているというのだ。私たちは全くふさわしくないものかもしれない。しかし私たちは子どもとされているのだ。
放蕩息子の父
イエスが放蕩息子の譬えを話されたことがあった。その場面の画がある。身も心も薄汚れてしまって肌も汚く黒ずんでしまった息子を抱きしめる禿げた親父の画だ。
私たちの神は、私たちの天の父はそんな方だ。自分に逆らって出ていった者の帰りを今か今かと待ち続けるような方だ。そして帰ってきたのを見つけたら自分から走り寄って、黒く汚れた身体をそのまま抱きしめるような方だ。
私たちの天の父はそのような方なのだ。そのようにして私たちはこの父の子とされている。だから父よ、父ちゃん、パパと祈りなさい、イエスはそういうのだ。
いつでもどこでも祈ることができる。かしこまる必要もない、無理に綺麗な言葉を探す必要もない、良いことばかり言う必要も長く話す必要もないだろう。幼子が父に話すように気持ちで自分の胸の内にあるものを何でも話す、それがイエスが私たちに教えてくれた祈りなのだと思う。言葉があってもなくても、父ちゃんのひとことだけでも、私たちが神の手の中に飛び込んで神の膝の上にちょこんと座ること、それこそがイエスが教えてくれた祈りなのだろう。