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礼拝メッセージより
「祈り」 2006年4月23日
聖書:マタイによる福音書 6章5-8節
祈れる
昔、女子高生コンクリート詰め殺人、とかいう本を読んだことがある。女子高生を何人かで監禁していたずらして殺してしまい、結局コンクリート詰めにしてしまうという話しだったと思うが、その犯人の若者たちの裁判の時だったか、若者たちの親の話しが出てくる。本を読んでいると自分の子どもが殺人犯になってしまった親の苦しみが伝わってくるようだった。現に事件を起こしてしまっている、とんでもない事件を起こしてしまっている、相手は殺してしまっている、親は苦しくて苦しくてどうにもならないという感じだった。それを読みながらふと思ったのが、この親たちはどうして祈らないのだろう、ということだった。どうして祈らないのだろう、祈るということを知らないのだろうか、祈る相手がいないのだろうかと思った。
主の祈り
祈りってなんとなく分かっているようで、でもよく考えると祈りって何なんだろうって思う。
一般的に祈りって言うときは何か願い事をするというような時にする行為だと思う。神社に言ってお祈りをするというような時にはいろいろとお願いをする。家内安全、商売繁盛、無病息災、試験に合格するように、などなど。
聖書の言う祈りとはそんな祈りと同じなのか、それとも違うのか。
イエスも弟子たちに祈りを教えた。それが主の祈りだ。今日の箇所はその主の祈りの前に弟子たちに祈りとはどういうことか、また祈るどうするのかということを言われているところだ。
人に祈る、神に祈る
イエスは人に見てもらおうと目立つ所で祈るな、と言う。つまり人に向かって祈るな、ということだろう。祈りなんだから当然神に向かって祈っている、はずなんだろうけど、必ずしもそうではない。人に対して祈る時がある。
みんながいる中で祈るときに、立派な祈りをしなければと思う。人前で変な祈りをしたとか、すらすらと祈れなかったなんて時に落ち込んだりする。だから人前では祈りたくない、なんて思う。祈ってください、なんて言われるとついつい人の目ばかり気にして、全然神さま向いてないなんて思うときもある。
反対に人の目があるところで祈りたがる人たちもいたらしい。人に見て貰うために人目につく場所で祈りたがる人がいた。イエスはそういう人たちのことを偽善者だと言っている。そんな偽善者のようにはするなと言う。
何で偽善者になるのか、どうして目立ちたがるのか。目立つところで祈っている姿を見せつけることで自分は立派な信仰者だと思って貰いたいんだろうなと思う。ということはそんな人は本当は寂しくて寂しくてしょうがないんだろうなと思う。誰かから、あなたは立派だ、あなたの祈りはすばらしいと言って貰わないと生きていけないほど寂しくてたまらないのだろうと思う。気持ちは分からないではないが、祈るときには大きな声を出したり、やたらとアーメンアーメン言う人もいるが、結局は周りの誰かに向かって俺はこんなに祈っているんだぞと見せつけているか、あるいは俺はこんなによく祈っているんだと自分に酔っているのではないかと思う。だからイエスはそう言う人を偽善者だと言っているのだと思う。
だからイエスは、祈るときには奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさいという。誰にも見えないところで隠れて祈れというのだ。祈りってのはそもそもこんなに祈っているぞって見せるようなものではないってことだろう。
神は隠れたことを見ていて報いてくれるという。
くどくど
またイエスはくどくどと祈るなと言う。「異邦人は言葉数が多ければ聞き入れられると思いこんでいる」と言う。
神を祈り倒さないといけないわけではないのだ。祈りという業績をあげて、あるいは祈りという人間の努力によって初めて神が人のことを知るわけではないのだ。あれもこれもいっぱい祈ったらそれに応じて神さまが応えてくれるというようなものでもない。何もかも全部ひとつ残らず神さまに注文しないと与えられないわけではないのだ。
なぜなら「あなたがたの父は願う前からあなたがたに必要なものをご存知なのだ」から。祈ることで神を動かすのではないということ。レストランでは自分の欲しいものを注文しないと出てこない。あれもしてください、これもしてください、とだらだらと注文しているとしたらどうだろう。レストランだったら確かに自分の欲しいものを注文しないと出てこない、自分に必要なものはレストランには分かっていないんだから当然だ。でも神さまはそんなレストランのウェイトレスとは違うというのだ。私たちに必要なものを何もかも知っているお母さんのようなものだということだろう。お母さんは注文したものだけ出すというわけではないだろう。何も注文しなくても必要なものを出してくれる。神さまはそんな風に私たちに必要なものはちゃんと知っている。だから私たちのことを何にも知らない人の話すように、くどくどと祈るなというのだ。
「祈り」
じゃあ、祈りって何なんだろうと思う。祈りっていうとすぐにあれやこれやをお願いすること、注文することのように思ってしまうけど、でも神さまは私たちに必要なものはもう知っているとしたら何を祈るのか、祈りって何だろうかって思う。
【祈り】という本の中にこんな事が書いてある。
『祈ることは、イエスを私どもの心にお迎えすることであります。』
『ですから祈りの効果は祈るものの力によるものではありません。彼の熱意も、熱烈な感情も、あるいは祈りの内容を明確に知っていることも、祈りがきかれたり答えられたりする理由となりません。いいえ、祈りの効果は、これらのことによるのではありません。神に誉れあれ、祈るということは、戸を開いて、私どもの困っていることの中へイエスに近づいてもらって、その困っていることに対してみ力をふるっていただくということにほかならないのです。』
祈りってのはイエスに来てもらうこと、イエスを心に迎えることなのだ。神さまに注文書だけを渡して、これお願いね、ってことじゃなくて、自分自身を全部渡して、私をお願いしますってことなんだろう。
だから祈りには必ずしも言葉が必要な訳ではない。かっこいい言葉も長い言葉を必要ない、イエスを迎える、また自分全部を献げる、つまり神と繋がること、それが祈りだ。
交通事故を起こして相手が亡くなった人がいる。どんな苦しみなんだろうかと思う。自分の子どもが殺人事件を起こしたらどんなだろうか。あるいは自分の命があと数ヶ月なんてことになったらどんな気持ちになるのだろうか。
そんなことばかりじゃなくて、毎日誰もがみんないろんな重荷を抱えて生きている。私たちには神がいる。祈る相手がいる。心の中に来てくれるイエスがいる。だから祈るのだ。