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礼拝メッセージより
「思い出せ」 2006年4月16日
聖書:ルカによる福音書 24章1-12節
埋葬
安息日が始まる前の日、つまり金曜日にイエスは十字架に付けられた。そしてその日の夕方には墓に入れられた。
ユダヤの一日は日没とともに終わる。そして次の一日が日没とともに始まる。
墓に埋葬されたのが夕方であったということはその日がもうすぐ終わり、次の日が始まろうとしている時だった。次の日とは安息日で、安息日には労働をしてはいけない、決まった距離よりも遠くへは行ってはいけないという決まりがあったそうだ。そこで婦人たちは安息日が終わってから墓に行くことにしたのだろう。
安息日
婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。
イエスについてきた彼女たちにとってはつらい沈黙の続く一日であったに違いない。彼女たちは事の成り行きをずっと見守っていた。この数日の出来事を見ていた。そして、イエスが十字架で処刑されたことによって、どれほどのショックを受けたであろう。イエスは捕らえられ、事態は思わぬ悪いほうへと向かっていった。そして結局は最悪の結果となった。
しかし彼女たちはそこを去ろうとはしない。死んでしまったイエスにも関わり続けようとする。男たちはみんなそこを去ってしまった。彼らは気が動転して、また自分自身の身の危険を感じてか、その場所にいることができなかった。婦人たちはイエスの遺体の処理を早くしなければ、という思いで安息日が終わるのを多分待ちかねて香料を持って墓に向かった。夜が明けて明るくなるのを待ちわびて墓に向かって行ったのだろう。
石
しかし彼女たちにとってまだ大きな問題が残されていた。それは墓の入り口の石が封印されていること、そして他の福音書によればそこには番兵もついているということだった。番兵を説得して、石をどけてもわらないことには遺体の処理をすることはできない。彼女たちの計画はまるで実行できない。大きな問題を抱えてもなお彼女たちは動き出している。動かないではいられないと言った方が正確かも。
しかし墓に着くと石はすでにわきに転がしていたという。そしてそこにはイエスの遺体が見あたらなくて、輝く衣を着た二人の人、天使が現れた。そしてなぜ生きている方を死者の中に探すのか、かねて言っていたことを思い出しなさい、十字架につけられ三日目に復活することになっていると言われたではないか、なんてことを言った。婦人たちは弟子たちにことの次第を話した。けれども使徒たちは婦人たちの言うことを信じなかった。ペトロは墓に確認に行ったけれども亜麻布しかなくて驚いたと書かれている。
復活
イエスについて行った女たちや弟子たちは復活のイエスに会ったことが聖書に記されている。そしてそのことから弟子たちは元気になっていった。彼らは絶望していた。家族も仕事も何もかも捨ててイエスに従っていたのだ。イエスの呼びかけに応えて、弟子となることを誇りに思ってついてきていたのだろう。いろんなイエスの奇跡も目撃し、イエスの言葉に諭されたり感動したりしながら、この人は偉大な人だという気持ちもだんだんと大きくなっていたに違いないと思う。ところがその自分たちの師匠が、実質的に社会を牛耳っていたユダヤ教の指導者たちの反感を買い、神を冒涜した、社会を混乱させたということで捕まり、十字架につけられて強盗と同じように処刑されてしまったのだ。
世の中を正すと思っていた師匠がつかまってしまい、自分たちも社会の反逆グループ、いわば非国民のグループということになってしまったわけだ。彼らは密かに逃げるしかなかった。立ち向かっていく力などとてもなかった。どうしてこんなことになってしまったのか、これからどうしればいいのか、弟子たちはそんな気分だったに違いないと思う。
イエスがどのように復活させられたのか、よくは分からない。どんな形で復活させられたのかもよく分からない。肉体をもってなのか、それとも霊みたいなのか、よくは分からない。むくむくっと起き上がったのか、昔の体のままだったのか、むち打たれて傷だらけのままだったのか。ミッションという映画のように血だらけだったのか、とても気になる。
どういうふうに復活したかということも問題ではあるが、それよりも私たちにとって大事なのは、私たちがその復活のイエスと出会うかどうかだろう。もし私たちが復活のイエスと出会わないとしたら、私たちにとってイエスが復活しなかったことと等しい。死んで墓に葬られたままであるのと等しい。
イエスとの出会いがなければそれはただの不思議な話に終わってしまう。イエスと出会うことで弟子たちにとっての復活があったように、私たちもイエスと出会うことで初めて私たちにとっての復活、イースターがやってくるのではないだろうか。
私たちは今、顔と顔を合わせるようにイエスと会うことはできないだろう。しかし私たちは聖書を通して、イエスの言葉を聞くことを通してイエスに出会うことができるのだと思う。イエスの言葉が私たちの心の中にあるとき、イエスは私たちの心の中に生きているようなものだ。私たちは心の中でイエスと出会うのだ。
思い出せ
婦人たちが墓に行ったとき、輝く衣を着た天使が、かつてイエスが言ったことを思い出せ、と言った。そして婦人たちは思い出した。婦人たちはイエスがかつて三日目に復活すると言ったことを思いだした。きっとそれだけではなくイエスが語ったいろいろなことやイエスの姿、イエスの行い、そんないろんなことを思い出したのだろうと思う。
イエスが捕まって処刑されてしまって、イエスの死のことで頭が一杯だったのだろう。殺されてしまった、殺されてしまった、ということしか考えられなかったのだろう。そのことで動転して遺体の処理をすることしか頭の中になかったのだろうと思う。
しかしここで天使に思い出せと言われたことでかつてのイエスの姿が婦人たちの心の中に甦ってきたのだろう。それはまさに婦人たちにとってのイエスとの新たな出会いと言ってもいいような出来事でもあったのだろう。
かつてイエスは婦人たちの目で見える所、いわば婦人たちの体の外で生きていた。そしてこの時からイエスは婦人たちの心の中に生きるようになった。イエスを思い出すことで婦人たちは墓から帰っていけた。復活の証人となっていった。
婦人たちは自分達が目で見たイエスの生き様を思い出すことによって復活のイエスと出会った。私たちはイエスを目で見た訳ではない。しかし聖書を通してイエスの生き様を知りイエスと出会うのだ。毎週の礼拝はこのイエスの復活を記念するもの、イエスを思い出すためのもの、イエスと出会うためのものである。かつては目に見えるものとして生きたイエスが、こんどは目には見えない、その代わりにけれどもいつでもどこでも共にいるものとして婦人たちの心の中に生きるようになった。そしてイエスと出会うことで私たちの心の中にも生きていてくれる。それが私たちにとっての復活なのだろう。
復活
今日は召天者記念の礼拝でもある。人は死んだ後どうなるのか、どこに行くのか。私たちには分からない。死とは何なのか、そして生きるとは何なのか、分かったようなつもりでいるがよく考えると分からないことだらけだ。死を前にして私たちは全く無力である。誰でも死ぬことはなんとなく分かっている。私たちの祖先たちもみんな死んでいる。得体の知れない闇が待ちかまえているような恐怖がある。
しかしイエスは死んで復活させられたという。イエスは死に呑み込まれたままではなかった。反対にイエスは死をも呑み込んでしまった。この神は、生きることも死ぬことも含めて全てを支配している、そんな神なのだ。その神を私たちは信じている。そこに私たちの希望がある。
すでに引退しているある牧師がこんなことを言ったそうだ。私は教会で葬儀がある時など、亡くなって天国に行ったときには、先に亡くなった家族に会えますよ、親しかった方にも会えますよと説教してきた。でもそれは間違っていた。天国に行けばイエス様に会えますよ、と語るべきだった。
死んだ後どうなるかよくわからない、けれどもそこも神の支配しているところ、イエスの支配しているところ、そこでイエスに会うことができる、先に亡くなった方たちもきっとそんな希望をもって生き、そして亡くなったことだろう。
召天者記念礼拝だが、この方たちが天国へ行けるようにお祈りするための礼拝ではない。そんな必要はない。そうではなく、召天者の方たちが信じた神を一緒に見上げるため、召天者の方たちが聞いたイエスの言葉を一緒に聞くために集まっている。
私たちはまだ死を迎えていない。そして生きているうちにはいろんなことがある。真っ暗闇に包まれるようなこともある。絶望するようなこともある。そして死が私たちを待っている。
しかし、すべてが暗闇に包まれてしまうような、そんな時にも、絶望することはない、私がついている、私があなたと共にいる、死を通り抜けてきた、死をも支配している私が一緒にいる、イエスは私たちにもそう語りかけてくれている。
先に召された方たちは、今もこのイエスの支配の中にいる、イエスと共にいる。私たちもやがてそこに行く、その希望を持って生きていきたいと思う。