前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「十字架の下に」 2006年4月9日
聖書:ルカによる福音書 23章32-49節
他人を
十字架のイエスの周りにはイエスをあざ笑う者がいた。議員たちは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と言い、兵士達は「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救って見ろ」と言う。そして十字架に付けられている犯罪人のひとりまでも、「おまえはメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言った。何とも嫌みな言い方に聞こえる。
しかし議員たちが言った「他人を救った」とはまさにその通りだった。イエスは他人を救った。しかし自分は救わない。どうして自分を救わないのだ。自分も救えないのか、どうしてそれでメシアと言えるのか、自分も救えない者が救い主であるわけがないではないか、そんな思いを持つのも理解できる。私たちも同じように思うのではないか。
神の子なら
メシアなら、キリストなら、自分を救ってみろ、キリストなら圧倒的な力で十字架から舞い降りて来るはずだ、と思う。キリストは誰にも支配されない、力があり、悪を蹴散らし、自分に反対する者をやっつけるのではないか、と思う。私たちもそう思う、そう期待するのではないか。最後の最後には、もうそこまでだ、おまえ達の勝手にはさせない、俺様をどなたと心得る、と悪者を成敗する、そう思っているのではないか。あたかも水戸黄門のように。最後の最後には、8時44分には印籠を見せて正体を見せるはずだと期待しているのではないか。
でもイエスは黙ったまま、苦しんでいるまま、誰からも見捨てられ、十字架の死に追いやられている。されるがまま、何の抵抗もしない。
とりなし
イエスは十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。」ととりなしの祈りをしたと書かれている。しかしこの言葉はかっこの中にあるように重要な写本にはない。
しかしそう言ったか言わなかったということよりも、十字架に至る行為そのものがとりなしであったと言えるだろう。
しかしなぜこれほどまでに苦しまねばならなかったのかと思う。神なのにどうしてこんな惨めな姿にならねばならないのか、それも最後の最後に逆転するわけでもなく、どうして死ぬまでそのままなのかと思う。
神はどこに
人生は苦しいことのみ多いのか。林芙美子という作家が「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と書いている。本当はそこしか知らないが。どうしてこんなことになるのか、なんでわたしだけこんなことになるのか、どうしてあの人はあんな大変なことになるのか。神さまはどうしてこんなことを許すのか、どうしてどうにかしてくれないのかと思うこともしばしばである。
自分に悪いところがなければまだいいのかもしれない。自分に非がなければ、どうしてこんなことになるんだ、どうしてこんなことを神は許すのかと堂々と文句も言える。
しかし自分に非があるとき、自分自身に責任があるなんて時、私たちは余計に苦しむ。自分を傷つけられた時よりも、誰かを傷つけた時の方が苦しみは大きい。交通事故でぶつけられたことがある。大した怪我ではなかったから言えるのかもしれないが、ぶつけられて身体は確かに痛かったけれども精神的な苦痛はなかった。ぶつけた相手の方が苦しいんじゃないかと思ってた。自分が誰かを怪我させたら、すごく後悔し苦しみだろうと思う。
苦しい状況そのものよりも、そんな状況を招いた自分自身の駄目さやだらしなさや、そして自分の罪を思うとき、私たちは一番苦しむような気がする。あの時ああしとけばこんなことにはならなかったのに、あの時あんなこと言ったばっかりにあの人を傷つけてしまった、自分がだらしないためにみんなに迷惑をかけてしまっている、そんな思いが私たちを心底苦しめる。そんな思いが頭の中をぐるぐる回り始めると夜も眠れなくなり安心できる場所がどこにもなくなってしまう。誰かから責められるときは逃げることもできる。しかし自分で自分を責めている時は逃げ場所もなくなる。
イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人の一人は議員たちと同じようにイエスをののしった。しかしもう一人は違っていた。この人は自分の過ちを認めている。自分が十字架につけられても仕方ないことをしたと思っている。この人は自分の非を認めて自分を責めていたのではないかと思う。こんなことになったのも自分のせいだと分かっていた。自分の人生を後悔し、嘆き、自分を責めていたのではないかと思う。だからイエスに対して俺たちも救ってみろなんて言えなかったに違いない。彼が言ったのは、御国においでになるときには、わたしを思い出してください、と言うことだった。こんな目に遭っているのも自分のせいなのだ、自分が悪かったのだ、でもこんな自分だけどどうか思い出してほしい、覚えていてほしい、こんな自分でも見捨てないでほしいというせめてもの願いだったのだろう。
楽園
ところがイエスは、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる、と答えた。今日楽園にいると。将来どこか遠くの御国に行くときにそこに一緒に連れて行ってほしいと犯罪人は願った。でもイエスは将来の連れて行くとか行かないという答えはしなかった。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいると答えた。十字架が楽園だと言ったのだ。
私たちも同じように思うのではないか。私も天国に連れて行ってほしい。この世とは別世界のパラダイスに連れて行ってほしいと願うのではないか。
でも実は、イエスと一緒にいるところが楽園なのだ。イエスと一緒にいるところが天国なのだ。今日、今私たちがイエスと一緒にいるならば、私たちも今楽園にいる、天国にいるのだ。
私たちも今罪に悩み、自分のしでかした過ちのために苦しんでいる、そしてもう救いようがないと自分を責めている、そんな十字架につけられているような苦しい状況かもしれない。しかしまさにそこにイエスの十字架は立っているのだろう。
こんな私を誰も気にも留めるはずがない、憐れむ人など誰もいない、見捨てられてしまうしかない、そんな風に思う者に最後までどこまでも寄り添っていく、それがイエスだった。それがイエスの十字架だった。自分の罪のために処刑される者とさえも共にいる、それがイエスだった。
イエスはそんな風にして私たちと共にいてくれている。確かに苦しきことばっかり多い人生だ。そんな私たちの人生だが、しかしそんな私たちに向かっても、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる、と言われているのではないか。