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礼拝メッセージより
「オリーブ山の祈り」 2006年4月2日
聖書:ルカによる福音書 22章39-46節
もの申す?
時々人の祈りが気になることがある。やたらと「本当に」ということを繰り返す人がいる。文章ひとつひとつに、本当にが入っている人がいる。本当にいたんです。本当に気になりました。本当に疲れました。何回言うのか本当に数えようかと思いました。
それと一所懸命に説明をする人がいる。何月何日何時何分に誰それ先生を迎えてなんとかかんとか後援会を行います。神さまに報告しなくてもきっとご存じでしょう。
もう一つ食事の祈りの時に、この食事を準備して下さった誰それさんに感謝します、って祈る人がいるけど、それって祈る時に言うんじゃなくて本人に直接言えばいいことじゃないのと思う。
そんなしょうもないこと考える自分は変な人間なんだろうかと思ってたら、この前本屋さんで有名な牧師の本をぱらぱら見てたら似たようなことを書いてたのでちょっと安心してます。祈りって分かっているようで結構分かってないことなのかもしれない。
苦しみ
聖書にイエスは苦しんだ、とある。キリストが、救い主がどうして苦しんだりするのか。キリストは人間を救うことができる。救うために来たのではなかったのか。なのに苦しむのか。
「わたしは死ぬばかりに悲しい」。そんなことを聞くほうが悲しい。キリストがそんなこと言うなよ、どんな苦難にもくじけないで、どんな苦しみにも、なにがあろうとも、ただ黙々と神を見上げていくべきじゃないのか。それこそがキリストではないのか、とさえ思う。
同じことを自分にも思う。なにがあっても平気、だって俺は神を信じているんだから、神がついているんだから、という風になりたい、なれればいい、それこそがクリスチャンだ、という気持ちがどこかにある。敬虔なクリスチャンとはそういうものだというイメージが一般社会にもあると思う。そして私たちの中にも多少ならずある。でもそれは教会で教えられたイメージなのか、聖書から聞いたイメージなのか、それとも全く聖書に関係のない所で聞いたイメージなのか。
現実にはイエスはここにあるように、この杯をわたしから取りのけてください、と祈っている。この杯、つまりこの苦しみ、十字架ということになるのだろう、この苦難をわたしから取りのけてください、とイエスは祈ったのだ。神が決めたことなのだから、それに従うまでです、なんてかっこいいことばかり言っていたのではなかった。
これは僕らの祈りと大して変わらない。どうしてこんなことになるのか、どうしてこの俺がそんなことにならねばならないのか、どうして、どうして、と言う問いを繰り返し問い続けることがある。イエスもそうだったのだ。
イエスがどうして十字架にかからねばならなかったのか、不思議な気がする。イエスが神であるのならば、そんな死刑になんかならなくてもいいではないか。神の無限の力でもって、どんなことでもできたはずではないか。自分を十字架につけようなんていう不届きものを成敗してしまえばよかったのに。神ならば、そうできたのではないか、と思う。
できなかったからしなかったのか。多分そうではないだろう。いろいろな奇跡を起こしていることを考えれば、できないはずはない。ではどうしてそうしなかったのか。
イエスは神として人間とは別世界の、高い高いところにじっとしてはいなかった、ということだろうと思う。あくまでも人間のところにいた、人間と同じ高さに立っていた、苦難を前にしても、十字架を前にしても、人間であり続けたのだ。神でありながらしつこく人間であり続けた。十字架で殺されるまで人間であり続けたのだ。苦しみ続けた。そして祈り続けたようだ。
祈り
同じ事が書かれているマタイとマルコの福音書ではイエスは三度も祈ったと書かれている。しかも同じ言葉で祈ったとある。ということは祈りに対する答えがなかった、ということだ。答えのないままに祈っていた。これも私たちと同じだ。何回目かの祈りを終えて、やっと立ち上がることができた。答える声が聞こえない、というのがイエスにとっては答えだったのかもしれない。そのまま、というのが神の答えだろうか。いや、イエスは答えはもう分かっていたのではないか。祈る前からきっと答えは分かっていた。しかし祈ったのだ。祈らないではいられなかったのだろう。
事態を変えることを願っても、祈っても、なにも変わらないことがある。だから神は祈りを聞いてくれない、と思う。しかしそれが神の答えだと言うことなのかもしれない。イエスは、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈っている。御心が何なのかよく分かっているのだ。その御心を受け止めること、それこそがイエスの祈りなのだ。
そんな風に御心を受け止めていく、神の声を聞いていくこと、それこそが祈りなのだ。神に対して自分の心の扉を開き神を迎え入れることだろう。また祈りというのは、どうにもならない現実をどうにか変えようとすることよりも、現実を受け止めていくこと、また自分自身を受け止めていくことなのだろう。祈りとはそういうもの、祈ることで現実や自分自身を受け止めていく力が生まれてくるのだと思う。
弱さ
苦しみ祈っているイエスの傍らで弟子たちは眠っていた。イエスの苦悩を知ってか知らずか、イエスの表情や態度から、多少なりとも緊迫感は感じてはいたであろうと思うが眠ってしまった。
しかしイエスはそんな弟子たちを見捨てることはなかった。殊更責めている様子もない。こんな弟子たちと、イエスはどこまでもいっしょに行こうとする。弱さをもった、罪をもった、そんな人間を抱え込んで、包み込んで、イエスは十字架へ向かっていく。平気な顔をして十字架に向かっていったのではなかった。苦しみもだえつつ向かっていったのだ。
祈り
そんな苦しみもだえる道をイエスは通ってきた。死ぬほどの苦しみ、死ぬほどの悲しみを通ってきた。私たちはこのイエスに従っていく。どうしてなんだ、やめてくれ、ともだえつつ、神はなにを考えているのか、どこに神はいるのか、と問い続ける、祈り続ける、それが私たちの生き方だ。
イエスはどんなときにも人間のそばにいようとした。そのために自分にどんな苦しみが待っていてもそうした。苦しみ祈りつつ人間のそばにいるのだ。そのことを感じとっていく、そんな神に聞いていく、それが祈りだ。
あれしてくれ、これしてくれ、アーメン、アーメンとかっこいい言葉でしゃべり続けることよりも、しゃべってもいいだろうけど、それよりもじっと神に聞いていく、黙って神と共にいる、それが祈りなのだろう。
神さま憐れんでください、神さま助けてください、そんな簡単な言葉をひたすら繰り返すだけでもいいそうだ。それならいつでもどこでも祈れる。そしてそうやって祈ると確かに全然違う。神の方を向いていく、神に向かって心を開く、それこそが祈りなのだろう。
「祈りは神を変えず、祈る者を変える。」(キルケゴール)
そんな祈りをしていきたい。