前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「共にいる」 2006年3月26日
聖書:ローマの信徒への手紙 6章1-14節
疑問
5章20節には「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と言われている。では、どういうことになるのか、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきか。」これは当然の疑問。
罪がある方が恵みが増すとすれば罪が多い方がいい、罪を犯し続けることがいい、となってしまう。そのように考えるものもいたらしい。
決してそうではない、とパウロはいう。
バプテスマの問題。
私たちはバプテスマを受けた。キリストに結ばれるためのバプテスマ、それはキリストの死にあずかるバプテスマ、しかしそれだけではない。キリストが父なる神に復活させられたように、私たちも新しい命に生きるため。
キリストと共に死に、キリストと共に復活する。
罪に支配されていた命は死に、キリストとともに生きる新しい命に生きる。
新しい命に生きる、何かが少し変わるという程度ではない、すっかり生まれ変わるということ。
でもバプテスマを受けたからといって私たちには何も変わりはないように思える。バプテスマを受けたら途端に美人になるなんてことはない。途端に勇敢な人間になるなんてこともない。
あるいはじいちゃん、ばあちゃんになるときみたいなものか。
自分は何もしていないのになっている。じいちゃん、ばあちゃんになるためには自分は何もしない。ただ孫が生まれたからなる。自分は何もしていないし、何も変わらない。しかし孫が生まれたその日からじいちゃん、ばあちゃん、なのだ。
同じように罪が赦されるための私たちは何もしていない。なのに赦される。赦されるものとされている。罪に対して死に、新しい命に生きるようにされているのだ。
キリストとともに死に、キリストとともに生きるようにされている。だからそれにふさわしく生きなさい。
すでに罪に死に命に生きている、だからそのようにいきなさい。
すでにキリストのものとされている。罪から解放される出来事が起こって、すでに解放されている。だから罪にとどまってはいけない。とどまるべきではない。
だから
これこれこうである、だからこれこれしなさい、という順序。聖書はいつもこの順序。ただ命令しているだけではない。私はあなたを愛している、だからあなたがたも愛し合いなさい、という風に。
また、この順序が逆ではない。つまりこれこれしなさい、そうすればこうする、という順番ではない。互いに愛し合いなさい、そうすれば私はあなたがたを愛する、というのではない。
あくまでもあなたがたを愛する、が先に来る。
ここでもそうだ。神はこうなさった、というのが11節まで、こうしなさいというのは12節から。
あなたがたは律法のもとにではなく、恵みの下にいる。
律法の下にいるときは、これはだめ、これもだめ、これもできない、私はだめ、あのひともだめ、私は罪人、あの人も罪人、という見方。になる。そういう考え方は律法の下にいる考え方。
子どもが生まれて親になったのに、自分は駄目だ、あれも出来ない、これも出来ない、とそのことばかり考えて悩んでばかりいても始まらない。子どもが生まれてから、もうちょっと待ってくれ、もう少し立派な親になるまでそのままでいてくれ、俺は親にはふさわしくないからやっぱりなれない、といわれたら子どもはたまらない。まずは親であることを認めることから始まる。
確かに親としてふさわしくないのではと考える。親というものはこういうものだ、ということを聞くと自分は親失格だと思うこともある。しかしそれは次の問題だ。どういう親であるべきか、ということは次の問題だ。第一は親であるということだ。親とされているということだ。子どもがいるということは親なのだ。親としてふさわしくあろうがなかろうが子どもがいるということは親であるということだ。ふさわしくないから親ではない、ということにはならない。親であるから、次の問題は親としてどうするのか、ということだ。親であることを認めるところから、親として生きることが始まる。そうしてだんだんと本物の親となっていくのだろう。
また子どもから親として扱われることでだんだんと親になっていくのだと思う。だれも親としての資格を持ってから親になるわけではない。親としてどうすればいいのかなんて分からないことだらけだ。なのに子どもは親として接してくる。全面的に頼ってくる。頼られることでだんだんと親となっていくのだろう。多分周りから、おまえは親なんだから親らしくしなさい、と言われることで親となっていくというよりも、子どもから親として扱われることで親となっていくのだろう。そんな風に、親が自分ひとりの努力で親となっていくというよりも、子どもとの関係を持つことでだんだんと本物の親となっていくのだろうと思う。
キリストとの関係
私たちも、キリストと共に死に、新しい命に生きる、と言われている。そのことも子どもと親の関係に似ているように思う。新しい命に生きるなんて言われても、私は本当にそうだろうかと思うのではないか。新しい命に生きるようにされたと言われるけれど自分は何も変わっていない、いい人間になったわけでもない、私はそんなものにふさわしくない、と思うのではないか。
しかしそうされている、と聖書は断定しているのだ。神によってそうされているというのだ。孫が生まれてもじいちゃんばあちゃん自身は何も変わらない。自分自身は何も変わらないけれどもじいちゃんばあちゃんになっている。同じように私たちは何も変わらなくても神によって新しい命に生きるようにされているのだ。罪の下にいるのではなく、神の下に生きるものとされたのだ。神がそのようにしたのだ。神がそうしたから神の下に生きるように、新しい命に生きるようにされているのだ。
私たちは自分自身が努力して、自分で自分を変えて新しい命を手に入れたのではなく、神との関係の中で新しい命に生きるようにされているのだ。キリストが十字架で死に、復活させられたことで、私たちもそのキリストと共に死に罪に支配された身体が滅ぼされ、罪の奴隷から解放されているのだ。そしてキリストと共に生きるものとされているのだ。キリスト・イエスに結ばれて神に対して生きるものとされているのだ。
私たちは罪に支配されているのではなく、神に支配されている。罪の支配から神の支配へと移されているのだ。罪の下にいるのではなく、神の恵みの下にいるのだ。だから体の欲望に従うのではなく、義のための道具として体全部を神にささげなさい、と言われる。
親となったから親として生きるように、キリストと共に生きるものとされたのだからキリストと共に生きなさい、と言われる。
変わった?
しかし私たちは、私は駄目だから、私は何も出来ないから、と自分の駄目さを嘆くことに忙しい。まさに私たちは駄目で何も出来ない。しかしその私たちを神は自分の支配の下に入れてくださっているのだ。新しい命に生きるものにしてくださっているのだ。
だから罪の奴隷としてではなく、死者の中から生き返って者として生きなさいと言われているのだ。自分自身を義の道具として神に献げなさいと言われているのだ。既にそうされているからそのように生きなさいということだ。神がそうしてくれたからそうしなさい、というのだ。
私たちは自分はふさわしくないとか駄目だとか思う、しかし神はふさわしいと見ているのだ。親になったのだから親として生きなさいと言っているようなものだ。私は親にふさわしくないとか自信がないとか言ってもそれで親でなくなるわけではない。子どもがそこにいる限り親であることに変わりはない。神がお前は新しい命に生きる者とされた、というからにはそうなんだ。神が決めたことなのだ。私たちが決めるのではない。私たちの判断で撤回されるわけではない。神が自分の恵みの下に生きる者とされたからにはもうそれで決まりなのだ。もうされているのだ。だから恵みの下に生きる者のように生きなさいというのだ。
私たちは刑務所で服役している囚人のような者だと聞いたことがある。終身刑の囚人。私たちは赦されて釈放が決まった囚人のようなものだそうだ。その囚人はその時を期待して過ごす。しかしまだ釈放を知らない囚人は希望のない日々を過ごす。私たちは神によって罪を赦され釈放されることが決まった囚人のようなものだ。神によってイエスによって赦され、釈放される日を待ち望んで生きるものとされた囚人だ。赦された、だから希望を持って生きなさいと言われている。釈放されることが決まっているのに、ずっと釈放されないかのように希望を失って生きることはない、そう言われている。
恵みの下に
私たちは神の恵みの下にいるのだ。神の恵みの下に生きるようにされたのだ。だから罪の中にとどまるように生きるのではなく、神の与えられた新しい命に生きるようにされた者として生きなさいと言われる。
なぜなら今は律法の下にいるのではなく恵みの下にいるからだ。自分だけを見ていてはそれは分からない。神を見ることだ。キリストを見ることだ。
私たちはキリストと共に死に、キリストと共に生きるようにされているのだ。イエスの十字架は私たちのものでもあったということだ。私たちの罪のためのものでもあったのだ。イエスに十字架によって私たちの罪は精算されている。そして私たちは神との関係の中に生きるようにされているのだ。神の国の住人とされている、神の民とされている、だからそのように生きなさいと言われている。