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礼拝メッセージより
「神の愛の深さ」 2006年3月19日
聖書:ルカによる福音書 22章14-30節
教会
教会ってどんな人の集まりなんだろうか。立派な人の集まりなのか。それともおちこぼれの集まりなのか。一人では生きていけない弱い人間の集まりなのか。
本当はきっといろんな人がいるのが教会なんだろうと思う。社会からのけ者にされているような人の集まりでもあるのだろう。誰でも来れるのが教会なんだろうと思う。教会は誰が来てもいいんですよ、と言う。でもそう言っているから誰でも来れるかというとそうとは限らないみたい。
教会では私のような者が来ることをいやがっている、だから来ない、という人がいた。自分のような社会的には一人前でない、常識のない、ろくでなしが来ることを教会の人は迷惑がっている、と言っていた。もちろん誰かに面と向かって言われたわけではないが、態度を見ていれば分かる、だから日曜日には来ないと言っていた。
一昔前、あなたの教会に障害者はいますかというアンケートをとったら、私の教会には幸い障害者はいません、と答えた所があったそうだ。障害者がいないのは幸いだなんていうとは何事かという声をよく聞いた。じゃあ教会で誰でも来れるようになっているかどうか、どんな人が来ても安心してそこに居れるような教会かどうかと考えると、簡単にそうだとは言えないという気がする。いつの間にか教会は立派な社会人じゃないと居づらい集まりになってしまっているのかもしれないと心配している。
最後の晩餐
今日の聖書は過ぎ越しの時の食事の出来事。過ぎ越しはかつての出エジプトを記念するお祭り。神が奇跡を起こしてユダヤ人たちをエジプトから救い出してくれたことを記念するお祭り。そしてこのような祭りを通してそのことを代々語り伝えていった。
食事
イエスが食事をしたことがたびたび福音書の中に出てくる。そして十字架につけられる前の最後の食事が丁度過ぎ越しの食事だった。
イエスは度々徴税人や罪人とされる者たちと共に食卓につかれている。社会からのけ者にされている者たちと共に食事をしている。神にとって、神の国にとっていかにもふさわしくないと思えるような者たちと共に食事をするのだ。実際周りからはそういう風に非難されていた。
しかしイエスの周りにはいつもそのような者たちがいた。立派な常識人だけがいたのではなかった。立派な信仰者ばかりではなかった。むしろそうでない者たちばかりだった。社会的には落伍者、脱落者と言った方がふさわしい者たちがイエスの弟子となっていた。
パンと杯
イエスは最後の食事でパンを取り感謝の祈りを唱えて、これはあなたがたのために与えらるわたしの体であるという。そして杯は、これはあなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である、という。
元来過ぎ越し祭は、アビブの月(捕囚後の暦法ではニサン)の1日に一歳の雄の小羊を選び、14日の晩にそれをほふり、その血を入口の柱と鴨居に塗った。エジプトを脱出するときその血を塗った家は神の災いが過ぎ越していったということを記念していた。そして肉は焼肉にし、過越の小羊として食べた。その翌日15日から1週間を「除酵祭」として、つまり種をいれないパンを食べる祭りとして守ったという祭りだった。種入れぬパンは急いでエジプトから出たときパン種を入れる時間がなかったことから、先祖の苦労を象徴しているものだったそうだ。神がエジプトから自分たちの祖先を救い出してくれたことを記念するという祭りだった。
イエスはこの食事の時に自分のことを説明した。つまりイエスは自らの体と血とを犠牲とすることで神と人との新しい関係が生まれるということだ。弟子達のため、そしてすべての者のためにイエスは自分の体と血をささげる、というのだ。そのことによって私たちはすべての罪を赦されるというのだ。そこで私たちは神から罪を指摘され罰せられるということではなく、神から愛されるという新しい関係に生きることが出来るようにされたのだ。
裏切り者
イエスは最後の晩餐を使徒達と共にした。しかしこのイエスの弟子の中には裏切り者がいたというのだ。イエスを金で売ったユダがいた。彼もこの最後の晩餐の席にいる。イエスと最後の食事をしている。しかし裏切り者はユダだけではなかった.。十字架を前にして弟子たちは誰もがイエスを見捨てて逃げてしまった。そういう点では弟子たちみんなが裏切り者だった。
そんな裏切り者をイエスは弟子としていた。そして最後まで一緒にいた。最後の食事まで一緒にいた。そんな弟子たちであったが、イエスはその弟子たちを捨てない。ずっと一緒にいる。十字架を前にして弟子たちはみんなイエスを見捨てて逃げた。でもイエスは弟子たちを切り捨てることはなかった。
裏切り者と
弟子たちは、われこそはどこまでも先生についていく、ということを勇ましく語った者もいた。晩餐のあとに誰が一番偉いかといことで議論が起こったという。以前にも誰が偉いかといってもめたことが書かれている。それはまるで人間が生まれ持った習性でもあるかのようだ。
しかしイエスは、一番偉い人は、一番若い人のようになり、上に立つ人は、仕える人になりなさい、という。
そんな弟子達だったが、彼らはみんなイエスを裏切ってしまった。いつもいつもイエスの言葉を聞いていた者たちであった彼らが真っ先にイエスを裏切ってしまった。
しかしその彼らのためにもイエスは血を流された。イエスを金で売り、あるいはいつまでも誰が偉いかと議論している者たちのためにイエスは死なれた。自分たちの罪深さや駄目さになかなか気付きもしない者がイエスのまわりにはたくさんした。しかしその者たちのためにもイエスは死なれた。自分の駄目さや罪深さになかなか気付かない、認められない、そんな私たちのためにもイエスは血を流された。それほどに弟子たちを、また私たちを大切に大事に思ってくれている、愛してくれているのだ。
だからこそ私たちにも愛しなさい、仕えなさいと言われているのだろう。仕え合い愛し合うことをイエスは勧められている。それは命令や掟ではなく、守らなければ罰せられるから守るということではなく、それこそが私たちにふさわしい生き方だからそうしなさいということなのだろう。
そしてまた仕え合い赦し合い愛し合うところに喜びがあるからだろう。そんな暖かい関係を持って生きることこそが私たちにとって一番の喜びなのだと思う。自分がどれほどの正しさや立派さを持ったとしてもえられない喜びをそこで持つことができるからだろう。
弟子たちが誰が一番偉いかと議論したように、私たちも自分は偉いと思いたい気持ちがある。そのために反対に誰かを責め裁き糾弾する。しかしいくら人を責めたところで、そんな自分の虚栄心をくすぐったところでそんなのは大した喜びとはならない。そして責められた方も憎らしく思うのが関の山だ。
そんな自分の正しさや立派さを求めるのではなく、愛するところに、仕えるところに、一番の大きな喜びがあると思う。喜びはそんな関係の中に生まれる。人と人との関係、そして神と人との関係を持つこと、愛し合う関係、いたわりあう関係の中に喜びが生まれる。
関係
20世紀は戦争の世紀だと言われる。力を持ち、権力を振るい、相手を支配し、何でも自分のものにしてしまおうとしていた時代だったように思う。力を持ち威張ろうとするところに争いが生まれる。でも争うところには喜びも平安もない。
支配する者と支配される者という関係ではなく、仕える者と仕えられる者という関係に生きるようにとイエスは言われる。力があり偉い者こそが仕える者となれ、という。そこに暖かい人間関係が生まれる。
そしてそれは何よりイエスが私たちと持とうとされている関係である。イエスは私たちのために自分の命をも与えられた。自分のすべてを与えて私たちを生かそうとされた。そういうふうにして私たちと関わっておられる。イエス自らがそうやって私たちに仕えてくださった。まるで社会の常識とは反対のことがらだろう。しかし教会こそそのイエスの言葉に聞いていかねばと思う。
私たちのためにもイエスは死んでくださった。だからイエスの死によって赦された者同士として、イエスに愛されている者同士として、私たちも愛し合い、いわたり合って生きたいと思う。イエスはそういうふうに生きることを勧めている。そんな教会となりたいと思う。