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礼拝メッセージより
「勝利」 2006年2月5日
聖書:ヨハネの黙示録 13章1-10節
黙示録
ヨハネの黙示録ってなんだか訳の分からんものがいっぱい出てきて何を書いてるのかまったく意味が分からないって気がする。一体何なの?でもそれがどんな形だったかなんてのを詮索してもあまり意味はない。それが何を意味しているかを読み取っていくことが大事だ。
当時はローマ帝国が力を持っていて、帝国内の多くの民族に政治的な忠誠心を植え付けるために皇帝を礼拝するようにさせていた。亡くなった皇帝を神として各地に神殿や祭壇を作り、強制的に礼拝させるようなこともあった。
でもユダヤ人だけは民族固有の宗教、つまりユダヤ教が認められていて皇帝礼拝も免除されていた。キリスト教もユダヤ教の一派であるということにすれば免除されたはずだが、紀元1世紀末にはキリスト教はそれなりの勢力となり、独立した宗教とみなされるようになったいたし、大多数がユダヤ人でない信徒であった。独立した宗教となるということで、国家に忠誠心を示すために皇帝礼拝をすることが求められることであった。キリストこそが唯一の神だということで皇帝礼拝を拒否することで国家から迫害や弾圧が起こった。そのために殺される者もいたらしい。そんななかで妥協して皇帝を礼拝するものや、教会を去っていく者も多くいたらしい。
そんな苦しい問題に直面している教会を励ますためにこの黙示録は書かれた。
獣
13章で2匹の獣が登場する。1匹は海から、もう1匹は地中から登場する。 第一の獣は妙な姿をしている。十本の角と七つの頭。角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまな名が記されている。一体どういう構造なのか悩んでしまう。またその獣は、豹に似ていて、足は熊の足のようで、口は獅子のようであった。滅茶苦茶な姿をした獣だ。そして頭の一つが傷つけられて死んだと思われたのに致命的な傷も治ってしまった、という恐ろしい獣でもある。そして竜が自分の権威をこの獣に与えたので人々は竜もこの獣も拝んだというのだ。
なんだか訳が分からないが、旧約聖書の中にダニエル書というのがあるが、そのダニエル書が背景になっている。その中にヨハネの黙示録と同じような書き方がされているところがある。黙示文学と言われるもの。
そのダニエル書の7章に、4頭の獣が出てくる。第一のものは獅子のような獣、第二は熊のような獣、第三は豹のような獣、第四の獣はものすごく恐ろしく非常に強く巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった、そしてその獣には10本の角があった、という。この4頭の獣はイスラエルを苦しめたバビロニア、メディア、ペルシャ、そしてその後を継いだエジプトとシリアという4つの国を表している。そして10本の角は10人の王のことである、というようなことが書かれている。この国は聖なる者を悩ますが、一時期、二時期、半時期の後に裁きの座が開かれ、人の子のような者によって滅ぼされる、となっている。
ヨハネの黙示録の獣はこのダニエル書の四頭の獣をひとまとめにしているわけだ。また七つの頭というのは、カナン地方の原住民の神話の中に出てくるレビアタンという蛇のような竜のような獣が七つの頭を持っている、そのレビアタンの姿も併せ持っているということだ。またレビアタンと対となって登場するベヘモートという獣がいるが、そのベヘモートは荒れ地を代表する獣であり、黙示録の第二の獣の背景となっている。ダニエル書に出てくる獣と、カナン地方で考えられていた獣の両方を併せ持った怪物としてこの獣が描かれている。
ダニエル書においてはかつてイスラエルを苦しめた四つの国を合わせたような強力な国、そしてそれはイスラエルにとっては西に当たる海からやってくるローマ帝国を表しているということだ。だから姿が豹に似ていて足が熊で口が獅子でもいっこうに構わないというか、細かな姿がどうであるかということにはほとんど関心がない。その姿が一体どんなだったのかと真剣に考える必要はない。それが一体何を意味しているのか、何のことを言っているのかということを考えることが大事だ。
この黙示録を聞く教会の人たちにとってはこの獣の姿がそのダニエル書に出てくる獣の姿であることをよく知っていたようだ。ということは、その獣がやがて人の子のようなものによって滅ぼされてしまう、ということも知っているということだ。つまり今の苦難も、やがて起こるであろうさらにひどい苦難や迫害も一時のことでしかない、ローマ帝国がどんなに強く見えてもこの苦しみはやがて終わるのだと言うことを教会の者に思い起こさせようとしているということだ。
ローマ
ここで、獣の頭の一つが傷つけられて死んだと思われたがこの致命的な傷も治ってしまった、とある。
当時、ローマ帝国にネロという皇帝がいた。ネロは民衆の支持を失って紀元68年に自殺をした。ところが暴君と言われたネロが死ぬと、まもなく「ネロが再びやってくる」という期待、不安が一般的に広がってきたそうだ。ネロが自殺したこともあって本当に死んだのだろうか、という疑いもあったそうだ。そのころ、現在のイランあたりにパルテアという民族がいた。ネロは生前ペルテア民族と友好関係をもっていたので、そういうことから、「本当はネロは死んだのではなく、パルテアに逃げており、やがてパルテアの軍勢を率いてローマにやってきて報復する」という期待と不安が広がっていたそうだ。実際に「自分こそネロだ」と言ってこの噂に便乗した者が何人もいたそうだ。ここではそんなこともあわせて、その強大なローマ帝国によって皇帝礼拝が強要されることが言われている。
惑わす者
第二の獣は、人々を皇帝礼拝を強要する者ということになる。また皇帝の像を造るように命令した。その像がものをいうことを出来るようにもさせたなんて書いている。そしてその像を拝もうとしない者を皆殺しにさせた。また全てのものに、その右手か額に刻印を押させた。そしてその刻印のない者を売ることも買うことも出来なくなったというのだ。
獣の像を拝まない者、つまり皇帝礼拝をしない者は社会生活をさせなくしてしまったというのだ。村八分にされた、あるいは非国民とされたということだろう。実際に皇帝の像に犠牲を捧げたというような証明書も発行されたそうだ。
その刻印は666のという数字であるという。これは皇帝であったネロを意味する。ゲマトリアという方法で、それぞれの文字にはそれに相当する数字があって、たとえばaが1、bが2、というようになっている。10とか100とかに相当する文字もある。そういう方法で皇帝ネロを数字に当てはめて足すと666になるそうで、666ということがネロを指しているということは当時の教会の人はすぐに分かったそうだ。
教会にとって皇帝礼拝をしてそのための刻印、証明が必要になるなんてことは大変な事態であった。キリストを拝むのか、それとも皇帝を拝むのか、どちらなのかをいつも問われ続けているということだ。キリストが主なのか、皇帝が主なのか、どっちなのか、それにどう答えるのかをいつも聞かれているようなものだ。そしてキリストが主である、と告白することは非国民とされ、また命が危険になるということであった。
忍耐と信仰
この獣には、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、42ヶ月の間、活動する権威が与えられた。
42ヶ月は12章でも出てきたように3年半である。7年の半分ということで、無限に続くのではない有限な期間、ずっと続くのではない限られた間でしかない、ということだろう。そしてこれはダニエル書にも同じような一時期二時期半時期というような言い方がされている。期間限定付きの権威、神から期間を制限されている権威でしかないということだ。
また聖なる者たちと戦い、これに勝つことが赦され、あらゆる種族、民族を支配する権威が与えられた。しかし大言壮語する口も、42ヶ月の期間限定の権威も与えたのは神であるのということだ。過酷な試練、苦難が待っているかもしれない、しかしそれもすべて神の支配のもとにあるということだ。あるいは捕らわれ命がなくなるかもしれない。しかしそれも神の手の中にあるということだ。だからこそ忍耐と信仰が必要であるというのだ。
忍耐と信仰とはどういうことか。それは神の言葉にイエス・キリストの言葉にしっかりと立ち続けることだろう。
迫害を受けている者、迫害を受けそうになっている者、苦しんでいる者に向かって、しかしそれは私たちが間違った道にそれたからそうなっているのではない、何かの罰を受けてそうなっているのでもない、私たちは間違ってはいないのだ、神が私たちを罰しているのではない、ただ天上から落とされた竜と獣たちが少しの間暴れることを許されているだけなのだ、やがてそれは終わるのだ、黙示録はそういって励ましている。
苦難の中にあっても、やがて苦難がやってきたとしても私たちは神の支えの中にあるのだ。すでに勝利しておられる神の手の中にあるのだ。私たちは小羊の命の書に名前が記されているのだから神を見上げ続けて行こうと励ましている。
神を信じたら苦難がすぐなくなるとは限らないし、すぐ楽になるとも限らない。でも私たちには全てに勝利している神が共にいてくれている。私たちの弱さも間違いも罪深さも全部ひっくるめて、私たちの全てを支えてくれて、そんな私たちを愛してくれている神が共にいてくれている。だから私たちはこの神を信じていくのだ。他の何者でもこの神を礼拝していくのだ。