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礼拝メッセージより
「壁を突き抜けて」 2006年1月29日
聖書:使徒言行録 11章1-18節
汚れた物
使徒言行録11章はペトロがエルサレム教会へ報告したことだが、そのことは10章に詳しく書かれている。ユダヤ人たちは汚れたものを食べることはしないし、汚れたものを食べている異邦人と接触することも避けていた。
レビ記11章に汚れたものについて書かれている。
11:1 主はモーセとアロンにこう仰せになった。11:2 イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、11:3 ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。11:4 従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。らくだは反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。11:5 岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。11:6 野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。11:7 いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。11:8 これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。
この後は水中の生き物や鳥やいろいろな動物についても何が汚れているかということが書かれている。何を食べていいか、何を食べてはいけないかということが書かれている。
ペトロが幻で見せられた動物を食べることなど、小さいころからの教えに反することだったのだろう。ずっと小さいころからいわれ続けている、そしてそれをずっと守ってきた、その決まりを破って食べなさいと言われたわけだ。
これは汚れていて食べてはいけない物なのだ、という風に決められているものを突然食べなさいと言われてもなかなかそうもいかないだろう。ペトロにとっては汚れた物を今までずっと食べてこなかった、そしてそれを誇りにも思っていたのだろう。ずっと守り通してきた掟なのだ。その掟を破るということは、自分が頑固に守り通してきたしきたりを捨てるということ、いわばそれまでの生き方の大転換をすることでもあったのだと思う。
人間は自分が大事にしてきたことを捨てることなどなかなかできない。ペトロも幻の中で屠って食べなさいという声に対して何度か拒否したと書かれている。しかし丁度そこへカイサリアから使いがやってきて、異邦人の所へ出かけていった。
境界線
人はそれまでいた所にいたいのだと思う。そこから抜け出すってのはとても難しい。でもペトロは出ていくようにと言われた。そして出ていったことで、神が異邦人も悔い改めに導くこと、異邦人をも愛しておられることを知った。自分達ユダヤ人だけの神ではないんだということを知らされた。
ペトロにとってはそれまで絶対だと思っていたことが崩されてしまった。それまで自分がすがっていたものが、つまり汚れた物を食べないということが、絶対的なものでないこと、絶対正しいというものでないことを突きつけられたのだ。ユダヤ人と異邦人という考え、清い民と汚れた民という考えがペトロの頭の中にはあった。自分たちは清い民で、異邦人は汚れた民であるということを当然のことと思っていたのだろう。そういう中でずっと生きてきたのだ。神は清い自分達の神なのだと思っていた。
しかしペトロはそれが間違いであることを教えられた。神は汚れから遠ざかっている自分達だけのものだと思っていたけれども、そうではないことを知らされた。そしてペトロは新しい世界へ一歩を踏み出したのだ。汚れたものと汚れていないものという壁の外にも神はいたことを知らされた。
私たちはどうなのだろうか。教会はどうなのだろうか。私たちもいろんな壁を作っているのではないか。朝鮮の人や中国の人に対して、アジアの人に対して、黒人に対して、どこか自分達とは一段違うという思いを持っている。あるいは体の不自由な人たちに対して、精神的な障害や精神的な病気の人たちに対してどこか変なものを見るような目で見てしまうところがある。
自分達は病気じゃない側、優秀な側、汚れてない側、神の側、正しい側にいるような気になっていることが結構あるような気がする。
自分の周りにいっぱい壁を作って、この人とは違うのだ、この人と一緒でなくて良かったなんて思ってしまう。
しかしここに言われているように、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」のだ。私たちは人を見て清くないとか、汚れているとか、駄目な奴だと思ってしまう。けれどもそうやって私たちが勝手に決めつけてはいけないのだ、と言われている。
突破
汚れたものに触れると汚れが移るという意識がある。汚染されると困るから汚染されないように避けないといけないという意識。
ペトロは出ていった。それは汚染されないように関わらないという意識ではできないことだ。
イエスの歩みもそうだった。イエスは汚れている、罪人とされている、のけ者にされている人たちの所へ出ていった。イエスは汚れに染まらないように壁を作るのではなく、汚れに染まらないために外の世界に接触しないのではなく、汚れを清めるために外の世界に接触していった。いわば守りから攻めへと転じていった。
私たちこそ壁の外にいた者なのだ。私たちも赦された者なのだ。私たちが、教会の人間が立派な汚れのない人間ではない。汚れた罪深い人間なのだ。私たちこそ誰よりも赦されなければならない罪人なのだ。そのことを忘れて、自分はきよめられた清い側の人間であると思って壁を作ってしまうことが最も罪深いことなのかもしれない。
ペトロは神に後押しされて、その壁を突き抜けて出ていった。
神にはそんな風に汚れを清めていく力がある。罪人を悔い改めに導く力がある。そんな神の言葉を、福音を私たちは預かっている。私たちは壁を作って外の汚れから自分達を守るのではなく、神の言葉を携えて壁を突き抜けて外へ出て行くようにと言われているのではないか。外の世界から離れて自分達の清さを守るのではなく、清さを外の世界へと広めていくようにと促されているのではないか。イエスは壁の外で待っているのかもしれない。