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礼拝メッセージより
「憐れみから」 2006年1月22日
聖書:マタイによる福音書 9章35節-10章4節
選び
イエスは12人の弟子を選び、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす権能を授けた。12使徒と呼ばれる人たちをこの時選んだ。そしてこの12人をすぐに派遣する。
そしてそれは、イエスが群衆の姿を見ての行為だった。つまり、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた、その結果12人を選んだ。
イエスの宣教とは「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と告げることである。弟子たちもイエスと同じように人々が悔い改めるようにと派遣された。
福音とは、悔い改めを起こさせるものである。悔い改めとは生きる方向を変えることだ。今までの過去の生き方とは決別し、全く新しい自分を生きようとさせるものである。自分の力だけで生きようとすることをやめ、神の力によって生かされようとすること。福音には生きる方向を変える力がある。イエスの福音にはその力があり、人が新たに生きるために力をも与える。だからそのイエスの言葉を伝え、イエスの言葉を、聖書の言葉を伝えていく、それが教会の宣教、伝道である。
何もない
10章5節以下を見ると、イエスは12人を派遣するにあたり、何も持たないで行くようにと言われている。
しかし本当に大丈夫なのかという気がする。彼らは何も持たないで出掛けた。特別な訓練もしていない。特別な才能を持っていたわけでもない。でもイエスはそんな12人を選び派遣した。
彼らは何も持たなかった。袋も金も、そして才能も訓練も、経験も何もなかった。彼らにあったのは、ただイエスの命令だけだった。イエスの命令、イエスの権威だけを持って出ていった。
そしてこれが教会の原点でもあるのだろう。教会はイエスに呼び寄せられた者の集まりである。そして私たちも派遣されていく者でもあるのだあろう。
教会関係の雑誌に、百万人の福音というのがるが、誰かがあの百万人はいつまでたっても百万人で全然増えないと嘆いていた。日本のクリスチャンは人口の1%とか、それ未満だと言われている。かなり前からそうみたいだ。そんな日本の中で私たちは教会に集まっている。神に集められている。
イエスは私たちをも遣わしているのだろう。ちょっと待って、と言いたくなる。いや実際いつも言っている。もう少し聖書の知識を持ってから、もうちょっと自由な時間を持ってから、あれが出来るようになったら、これが出来るようになってから、もうちょっと自信をもってから、もうちょっとお金に余裕を持ってから、もうちょっと信仰を持ってから、なんてことを思う。
人間は何でも持つことが好きだ。しかしイエスは何も持って行くなと言う。持っているものまでもイエスは置いていけ、と言われる。自分の中にある自信も、自惚れも、優越感も、また自己嫌悪も、敗北感も、劣等感も全部おいていけ、と言われているようだ。
憐れみ
イエスは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた、そこで12人を選んで派遣した。深く憐れむという言葉は、腸がちぎれるという意味の言葉だそうだ。
派遣されるなんていうと、私たちは派遣される自分たちがどんな状態かということを一所懸命に気にする。こんな自分は何もできません、賜物がありませんと思う。しかしイエスは群衆がどんな状態なのかを気にしている。福音を必要としている人がそこにいるからイエスは弟子たちを派遣した。憐れむべき人がそこにいるから、イエスは弟子たちを派遣した。弟子たちにどんな能力があるかなんてことはほとんど問題ではない。むしろ何も持たないで行くように、ただ憐れみと、イエスの言葉、それだけを持って行くようにと言われている。必要としている人がいるから福音を伝えなさいと言われているのだ。教会として考えると、教会を大きくするために、財政を豊かにするために、あるいは能力のある人がそこにいるから、奉仕する人がいっぱいいるから福音を伝える、のではなく、福音を必要とする人がそこにいるから福音を伝えるのだ。神の言葉を必要とする人がそこにいるから伝えていく、愛すべき人がそこにいるから愛していく、憐れむべき人がそこにいるから憐れんでいくのだ。神に招かれている人がいるから、教会はそんな人を招いていくのだ。だから福音を伝えるということ、イエスの務めを果たしていくというのは、教会の中の都合に合わせるのではなく、教会の外の都合に合わせていくものなのだろう。教会の中にイエスの言葉があれば、それでもう準備OKなのだ。
収穫
イエスは収穫は多いが働き手が少ないといった。収穫とは福音を待っている人たち、福音が必要な人たちのことだろう。そんな人たちがきっと私たちの周りにも一杯いる。だからイエスは私たちにも御言葉を伝えるようにと言われているのだろう。そんな人たちいることに私たちは案外気付いてもいないのかもしれない。伝道しましょうというけれども、そうしないと教会が大きくならないから、教会が維持できなくなると困るからなんて気持ちが結構あるのかもしれない。けれどもイエスはそんなことよりも、憐れむべき人、愛すべき人がそこにいるから伝道していけと言われる。
そしてそんなイエスの命令があるから私たちはそれに従っていくのだ。イエスは、ただ私の権威だけを持って私の務めを果たしなさいと言われているのではないか。あれがない、これがない、あれが足りない、これも足りない、と私たちはすぐに言う。能力がない、お金がない、時間がない、若さがない、元気がない、いっぱいないものを数えていく。でもイエスはそんなお前に私の務めを託したい、そんなお前を私は選んだのだ、と言っているのではないか。
12弟子たちはイスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさいと言われた。私たちはに何を託されているのだろう。12弟子たちと同じように出ていくことかもしれない。あるいは教会にやってくる人たちを笑顔で迎えることかもしれない。教会でのこまごました奉仕をすることかもしれない。教会を見えないところで支えていくことかもしれない。あるいは祈っていくことかもしれない。それぞれの仕方で私たちは神の働きに参加するようにと招かれているのだ。あなたはどんなことを神さまから託されているのだろうか。