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礼拝メッセージより
「一つにされる」 2006年1月15日
聖書:使徒言行録 2章37-47節
教会
どうして教会に集まるのか、わざわざ日曜日の朝早くから教会に集まって礼拝するのはなぜなのか。神さま信じていたら集まらなくてもいいじゃないか、という声を聞くこともある。どうして集まるのだろうか。本当は、何をしに集まってきたかというよりも、どうして集められているかと言った方が正しいのかもしれないが。
ペトロ
今日の箇所はペンテコステの日の出来事だ。イエスの十字架を前にして弟子たちだったが、この日聖霊に満たされていろんな国の言葉で語り出した。そしてペトロが大胆に説教をしたというところ。その説教の最後の所でペトロは、36節「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と語った。あなたたちはキリストであるイエスを殺したのだ、でもそのイエスを神は復活させたと言った。
これを聞いた人びとは大いに心打たれた。自分達がキリストを殺してしまったわけだから。この人たちは弟子たちに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と聞いたという。偉いなあと思う。何も弁解せず、これからどうしたらいいのかと尋ねたというのだ。これを聞いたペトロは、悔い改めなさい、めいめいイエスの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい、そうすれば賜物として聖霊を受けます、と言った。
悔い改めるとは、私は間違っていたなんて駄目な人間なんだと言って自分を責めることではない。また汚れた自分の心をうちたたいて清くするということでもない。回心という言葉があるが、キリスト教では回る心と書く。心を改めるという改心という言葉ではなく、回る心の回心と書く。回心を辞書で調べると、キリスト教:それまでの罪を悔い改めて神の信仰に心を向けること、なんて書いている。つまり回心とは心の向きを変えることなのだ。心を改めるというよりも向きを変える。神の方に向きを変える、神の方を向いて生きるようにする、それが回心、悔い改めだ。心の中身を変えて綺麗にすることが大事なのではなく、神の方を向くこと、神の言葉を聞いて生きるようにすること、それが大事なのだ。私たちの心の中には汚れた邪悪なものがある。消そうとして消せない汚れがある。でもいい。汚れがあってもいい、そのままで神を向くことが大事なのだ。そこから全てが始まる。
続けてペトロは、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け罪を赦していただきなさいと言う。私たちが神に向き直ってバプテスマを受けることで罪を赦してくれるという。いや、もうきっと私たちはバプテスマを受ける前から赦されている。しかし悔い改めることでそのことを知り、バプテスマを受けることでその神の赦しを受け止めるということだろう。そうすれば、賜物として聖霊を受けます、という。そうすれば神の霊を、神の力を私たちは受ける。それは神さまからの贈り物、プレゼントなのだ。
教会
ここに教会が始まった。悔い改めてバプテスマを受けた者の集まりが教会だ。罪を持っているがその罪を赦された者の集まりが教会だ。
その教会では、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であったという。
パンを裂くこととは一緒に食事をすることとか主の晩餐をすることなのだと思うけれども、面白いことに相互の交わりにも熱心だったという。最初はいろんなものを共有していたなんてことも書かれている。
教会は最初から交わりを大事にしていたというのだ。悔い改めてバプテスマをうけたら、あとは一人で神を信じていればいい、というわけではないらしい。キリスト教とはそういうものではないみたい。自分が神を信じるという自分と神との関係はもちろん大事。しかしそれだけではなく自分と隣人との関係も同じように大事にしてきたのだ。
ひとつ
たとえばコリントの信徒への手紙一12章には、教会がキリストをかしらとする体に譬えられている。教会はみんなが集められて一つの体が作られているようなものだと言われる。体はいろんな部分があって、それぞれに違った働きをしている。みんな同じだと体にはならない。みんなが違っていることが大事である。違っていないといけないのだ。そして違った者同士が調和してまとまっている。それぞれ違ったものがいたわりあっている、それこそが教会なのだろう、と思う。
集められてひとつとなるわけだが、みんなが同じになるということではない。みんなが同じ考え、同じ感じかたをするということではない。みんな違うままに、神のもとに、キリストのもとに集まってひとつのものを形作っている、それがひとつになる、ということだろう。私たちの内にイエスがおり、イエスのうちに父なる神がいる、ということだ。そしてそこで私たちは神に愛されていることを知るのだ。神に愛されていることで、赦されているということで集まっている、それが教会なのだ。
教会の本質はそういうふうに集まっていることだろうと思う。何かをすることが本質ではなく、集まること自体が本質だと思う。神に愛され赦されていることを喜び集まってくる集まりそれが教会だ。何かをするために集まっているのではなく、集まること自体が目的なのだろうと思う。
活動的な教会の話しを聞くとちょっと後ろめたい気持ちになることがある。うちの教会は何もしていないではないかなんて思うことがある。うちの教会も、あんなことしました、こんなことしました、と言いたい、そう言って自慢したいなんて気持ちがないわけではない。でもそんな何かをすることが本来の目的ではないと思う。何にもしなくても集まること一番の目的であり大事なことなのだ。こうやって集まっていることそれこそが教会なのだ。神の名のもとにイエスの名のもとに集まる。神に愛され赦されていることを喜びつつ集まる、それが教会だ。だから自分たちの教会が何も出来ていないから駄目な教会だとか思う必要はない。いろんなことをやっている教会と比べて自分たちが劣っていると思う必要もない。何もやっていない自分たちがだめな信徒だと思うこともない。そんなことよりも互いに愛し合っているかどうか、それこそが問題だ。教会に来た人たちを大事にすること、思いやりをもって接すること、そのことの方がよっぽど大事なことだ。やりたいことが出てくればやればいい。しかしとにかく集まることを大事にし、みんなが集まることを喜ぼう。きっとそこから何かをしようという気持ちが起こってくるだろう。誰かを招きたいという気持ちも起こってくるだろう。
教会の目的
『一定の能力、財力、そして共通した価値観、そのような人々を集めれば、団体としての纏まりが良いわけで、団体を構成する時にそういう配慮をするのは当然でしょう。しかしそのような配慮を必要としない、従って雑然としたままでよい、というよりは雑然としたままでなければならないような団体があります。教会がそれです。教会とは、雑然としたものが互いにいたわり合って調和していく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何か事をする為の条件ではなく目的であることを忘れないようにしましょう。』(「神の風景」藤木正三)
いたわり合って、調和すること、それが教会の目的だ。そのために私たちは集められている。そのために一つにされている。
調和は英語で言うとハーモニー。みんなが同じだとハーモニーにはならない。それぞれが違っていてこそハーモニーになる。いたわり合ってハーモニーを奏でることが教会の目的なのだ。