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礼拝メッセージより
「十字架のキリスト」 2006年1月8日
聖書:コリントの信徒への手紙一 1章18-25節
コリント
コリントの教会はパウロの伝道によって造られた教会だった。その後アポロが伝道したそうだが、教会の中でパウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派ということで分派が生じて、教会の中で対立するようになった。そこでパウロは自分が伝えたことは何だったのかということをもう一度伝えようとした、そして教会が一致するようになってほしいということからこの手紙を出したようだ。
パウロ
パウロがコリントで何を伝えたか、それはキリスト、それも十字架につけられたキリストだった。それはユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの、とパウロ自身が言っている。
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です、と言う。パウロはイエスがどうして十字架につけられたのかというと、それは弱さの故だというのだ。人びとを贖うために、その道を邁進します、と言って力強く十字架についたのではなく、弱いままだったから十字架につけられたとパウロは言うのだ。でもその十字架のキリストを、十字架の言葉をパウロは伝えたというのだ。イエスが弱さのゆえに十字架につけられた、そのことが救われる者には神の力であるというのだ。
ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものだとかいているように、いかにもおろかなことに思える。キリストなんだから、いつも神々しく力強くあるはずだと思う。偉大な力を発揮して私たちをいろんな悪から守ってくれるのがキリストではないのかと思う。しかしパウロはコリントの信徒への手紙二13章4節でも「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」
けれどもパウロは十字架とはそういうものではない、十字架のイエスとは弱さの極みなのだという。しかしその弱さが、実は神の力、神の知恵なのだ、とパウロは言う。だからパウロは2章2節で「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と言っている。
パウロは2章3節で、「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と言っている。ここの「わたしは」という言葉は、「わたしも」と訳せる言葉で、わたしもと訳した方がいいと神学部の先生が言っていた。私もまた、衰弱していて恐れていて不安だった。では誰と一緒なのかというと、その前からずっと書いている十字架につけれれたキリストと一緒だというのだ。十字架のイエスも衰弱していて恐れていて不安だった、そんな弱い存在だった、そして私もコリントへ行ったときにはそうだった、というのだ。
十字架
そこに救いがある。そこにこそ救いがある。人間の感覚からいくと納得いかないことかもしれない。そんなんでいいのか、とも思える。ただ一方的に神が救いの道を備えて下さってそれを受けるだけ、それでいいのかと思ったりする。自分をうちたたいてこそ救いは達成できるのではないかと思う気持ちがある。自分で達成したほうが達成感もあるし、自分の自信にもなる。
人間はそうやって自分が偉くなったような妙な安心感に浸れる。しかし実は救いは十字架にしかない。十字架のイエスにしかない。弱さの中にこそ救いがある、パウロはそう言うのだ。
コリントの信徒への手紙二12章7節以下には、パウロに与えられたとげの事が書かれている。
「12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
このとげがなんなのかというのはいろんな節があるそうだ。とにかくそれを取ってくれと三度祈った、けれどもそれに対する主の答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだと。」いうことだった。
パウロは、イエスはその十字架につけられたそのまま、その弱いままなのだ、という。衰弱して恐れて不安であるままなのだという。しかしその弱さの中に力は十分に発揮されるのだという。
私たちの人生は順調なことばかりではない。失敗と挫折の連続だ。失望し不安におそれおののいている。しかしそこに、私たちと同じように絶望し不安におののいているイエスがいてくれている。恐怖に震えている私たちのすぐとなりに、ぶるぶる震えているイエスがいるということだ。十字架上で「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか」と絶叫したイエスが、そのままの姿でいてくれているということだ。
牧師であった夫が若年性のアルツハイマーになった人のことを思い出す。病気のためにやさしかった夫が暴力を奮うまでになったそうだ。その奥さんは、イエスのその「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか」という言葉にすがりついていたと書いていた。自分のすぐ隣で、どうして私を見捨てたのかと絶叫するイエスがいた、そのことが彼女にとっての力になっていた、救いとなっていたようだ。
しかし父なる神はこのイエスを復活させた。弱いままのイエスを、それでいいと完全に肯定して復活させた。私たちの希望はそこにある。弱い私たちを、神はまた肯定してくださっている。愛してくださっている。そして私たちの弱さの中に神は力を発揮してくださる、もう既に発揮してくださっているのだろう。