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礼拝メッセージより
「証しする教会」 2006年1月1日
聖書:使徒言行録 26章19-23節
パウロ
パウロはエルサレムにやってくるが、すでにパウロの評判はユダヤ人たちに広まっていた。ユダヤ人たちから見るとパウロは律法を軽んじている、どうでもいいと宣伝しているという極悪人だったようだ。そのためにパウロはユダヤ人たちの反感を買い騒動に巻き込まれてしまう。そのためローマ当局に身柄を拘束されてしまう。
そんな中でパウロはユダヤ人たちに対して、またローマの役人たちに対して弁明することになる。自分を訴える者に対して彼は堂々と、そして思慮深く弁明する。パウロは自分がローマの市民権を持っていることなどを利用して、結局は皇帝に直訴するということでローマに向かうことになる。
証し
パウロはダマスコへ向かう途上でイエスと出会った、という話しを繰り返ししている。使徒言行録の中にも三度その話しが出てくる。ご丁寧に三度とも詳しく書かれている。
パウロにとってはそこでイエスに出会ったことが全ての始まりだった。そのことを話さないでは何も始まらないことだった。そしてそれは彼にとって、きっと喜びだの体験だったのだと思う。だからきっとパウロはことあるごとにこの時のことを話していたのだろう。
躊躇
私たちはクリスチャンであることとか、教会に来ていることなどを口にしずらいという気持ちを持っているのではないか。今度の日曜日に遊びに行かない、なんて誘われても、日曜日の午前中は礼拝に行くからと言うことをためらうという話しをよく聞く。あるいはそう言うには勇気がいるという話しも聞く。中には私は言っていますと威張って話す人も見かける。
いろんな人がいるだろうが、教会に行くことを普通には話しづらいというのはどうしてなんだろうか。僕もそうだった。なんとなく教会に行くなんて言うと相手からなんて言われるだろうか、なんて変な心配もあった。牧師になりたてのころは牧師であると言うこともちょっと勇気がいった。教会関係の人に言うのはなんともないけど、教会に関係のない一般の人からお仕事は?なんて聞かれると牧師ですというのにはちょっと勇気がいった。そういうとだいたいへえーっていう反応が返ってきて、いろいろ聞かれるのが面倒だという気持ちもあったけど、本当は牧師の癖にと言われるのが恐いからだと思う。牧師の癖にそんなことするんだ、牧師の癖にこんなことも知らないの、牧師のくせにだらしない、、、。そんな牧師の癖にって言われるのを恐れる気持ちがある。
教会に行ってる、礼拝に行っている、クリスチャンだ、なんてことが言いづらいって気持ちがあるとしたら、同じような気持ちがあるんじゃないかな。クリスチャンのくせに、って言われそうな心配があったり、礼拝に行くような柄じゃないだろうって言われそうな心配があるから、当たり前にクリスチャンだとか、礼拝に行くとかって言いづらいんじゃないかな。
日本では教会は清い人、できた人が行くところというようなイメージがあるみたいだけれども、教会に行くなんていうと聖人君子に見られそうな気がして、ちょっと用があってと言ってしまう。
そのまま
周りからそう見られると、いつの間にかそうじゃないといけないような気になるのかな。そうじゃない自分は恥ずかしいという気になるのかな。
ええかっこせんでいい、自分の思うことを、信じることを表明すればいい。知ったかぶりする必要もない、罪も汚れもないような振りをする必要もない。分からんことはいっぱいある、神のこともキリストのことも聖書のことも分からないことだらけ、分かっているのはほんの一部だ、と言っていい。でもこんな自分が教会に行っているのだ、礼拝するのだ、神を信じているのだ、と言えたらいいなと思う。
昔ある牧師がテレビの取材を受けたときの話しを何かで読んだ。その人はいろいろ質問されるときに随分わかりませんって答えたそうだ。テレビに呼ばれる程偉い人だったみたいだけど、分かった振りをしないで分からないって答えたらしい。そうしたらそれを見た他の牧師たちの方が、お前は分からないと言いすぎだと言ったそうだ。でも本人はただ正直に答えたまでということだったらしい。
確かに私たちは神のこと、キリストのことを伝えていくようにと言われている。それが教会の大事な使命でもある。しかし背伸びすることはない、分かるところで伝えていけばいい。私たちがキリストのことを全部知ることなどできない。だから私たちの知っているキリストを伝えればいいのだ。自分にとってのキリストを伝えればいい。あの時あの聖書の言葉を読んで嬉しかった、あの御言葉を聞いて安心した、この言葉に慰められたとか力づけられたとか支えられたとかということを伝えればいいのだと思う。自分はどうだったかということを伝えればそれでいい、そしてきっとそれが大事なのだ。それこそが証しなのだと思う。
そのためには私たちが正直でいることが大事なのだと思う。分かることもあるし分からないこともある。どうしてこんな苦しいことが起こるのかって悩むときもある。そんな時は分からないって言えばいい。苦しいときは苦しいって言えばいい。それが証しするってことだろう。いつでもどこでも感謝なんてできないと思う。できない癖に感謝感謝なんて言ってるとしたら、それは自分で自分を騙していることになる。苦しいときにも感謝って言わなければいけないなんてそんなつらいことはない。教会に来たら苦しいことが何もなくなるなんてことはない。しかし苦しいときにも神が共にいてくれる。重荷を負うときにも休ませてくれる、そしてそこでまた苦しみに立ち向かい、重荷を負っていく力を与えてくれる、そんな仕方で神は私たちを支えてくれている。だから苦しい時には苦しい顔をして苦しいって言えばいい。それも証しだと思う。
神とは何なのか、聖書とは何なのか、そんな難しいことは偉い人に任せておけばいい。
私たちは、神が自分とどう関わってくれているのかということを伝えていけばいいと言われているのではないか。