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礼拝メッセージより
「時は満ちて」 2005年12月25日
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 4章1-7節
律法
ガラテヤ教会では、パウロが去った後にある人びとがやってきて、異邦人キリスト者たちに割礼を受けることを勧めていたらしい。割礼とは旧約聖書の律法に書かれていることがらで、そのことによって神の民とされるという行為で、そのことでユダヤ人となるという行為だった。また割礼を受けるということは律法を守っているという証明でもあった。まずは割礼を受けなければ救われない、キリスト者となるにしても最初に割礼を受けて、それからバプテスマを受けないといけないという考えをもった人たちがパウロがいなくなってからやってきて、教会の中でそんな主張をしていたらしい。
ユダヤ人にとっては割礼を受けると言うことは至極当然のことだったのだろう。神を信じる者である、神との契約の民であるという証拠でもあったに違いない。割礼を受けることから神の民としての歩みが始まっていたのだと思う。
日本でもお宮参りというのがある。生まれて一ヶ月位に神社に行って祝詞をあげてもらうみたい。でもただ祝詞を聞くだけなら本人にとっては全然分からないし覚えてもいないだろう。けれども割礼は体にその証拠がはっきりと残る。一生そのことを意識して生きていくということになる。そしてその割礼を受けているということが、自分が神に選ばれた特別の民であるということ、特別の民であるユダヤ人となったということの見える証しだった。
だからパウロが、クリスチャンになるのに割礼を受けないでいいと言い出す事は納得がいかなかった。先祖代々大切に守ってきたしきたりを、これは絶対しないといけないと大事にしてきたきまりを、それはもうやらなくてもいいと言われてもなかなか認められることではなかったらしい。
時
しかし時は満ちた、律法の時代は終わった、新しい時代が来たとパウロは言うのだ。律法にがんじがらめにされていた時代は終わった。イエス・キリストが来られたということは新しい時代が来たと言うことだ、と言うわけだ。未成年の相続人が父親から受け継いだ財産を自由に出来ず管理人が管理しているけれども、成人すればその財産を自分の自由に出来るように、私たちもこれまでは律法やいろんなものに縛り付けられ奴隷であった私たちは、イエス・キリストが来たことで自由なものとされたというのだ。そんな時がやってきたというのだ。全く新しい時代になったのだというのだ。
かつてわたしたちは世を支配する諸霊の奴隷であったという。自由な人間ではなく奴隷として不自由な生き方をしていた。しかし時が満ちて神はその御子を奴隷としてお遣わしになったという。つまり神はイエス・キリストを人間として生まれさせたというのだ。それは律法やいろいろな諸霊に支配されて奴隷とされている私たちを贖い出すため、贖いとは代価を払って買い戻すということだが、要するにイエス・キリストの命を持って私たちの命の代価とする、私たちの身代わりとしてイエス・キリストが死ぬという仕方で私たちを救い出す、そしてそれは私たちを神の子とするためだというのだ。
またユダヤ人たちは、割礼こそが自分達が神の民である証拠であると思ってたようだが、パウロは神の子であるという証拠は、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を神が私たちの心に送ってくれているという事実だという。アッバとは子どもが父親を呼ぶ時の呼び方、だからお父様というよりも父ちゃん、父さんというような言い方だそうだが、神を父ちゃんと呼ぶ、そんな親しい親子関係を神は私たちと持てるようにしてくれた、そんな御子の霊、イエス・キリストの霊、聖霊を私たちの心に送ってくれたという事実、それこそが私たちが神の子とされている証拠だ、というのだ。
かつては割礼という明らかに目に見えるものが神の民としての証拠だった。しかしそれはいろいろなものに縛られていた奴隷とされていた時の証拠だった。時が満ちた今、私たちは自由にされている、奴隷ではなくなっている、神の子とされている、そしてその証拠は神が御子の霊を私たちの心に送ってくれているという目に見えない証拠だ、と言うのだ。
イエス・キリストが生まれたと言うことは、古い時代が終わり新しい時代になったということだ。私たちが奴隷であった時代がおわり自由にされているということだ。いろいろなものに縛られる必要はないということだ。
自由
私たちを縛り付けようとするいろいろなしがらみがある。今日は大安だからこれをしていいとか友引だからこれをしてはいけないなんていうことがある。今日は何とか座の人はこれをしてはいけませんとか、血液型が何型の人はあそこに行ってはいけないなんてのをテレビでもよくやっている。子どもに名前をつけるのにも、画数がよくないということで字を変えたなんこともよく聞く。
だいたい、こうしなさいとは言われるけれども、なぜそうなるのかを説明しているのを聞いたことがない。そんなことは関係ないだろうと思ってもいろいろ言われたら不安になる。言われなかったら気にしないことも、こんな時はこうするものだ、なんて言われたらそうしないといけないのかと不安になるようなことがいろいろある。教会に行き前は、そんなことおかしいよと思いつつも、関係ないと割り切ることも出来なかった。でも教会に来るようになってイエス・キリストのことを知るようになってからは関係ないことを関係ないと思えるようになった。信じるものがあると余計なことに振り回されにくくなったと思う。
けれども何もかもから自由かというとそうとも言い切れないものもある。いろんな価値観に縛られている。自分には価値がないのではないか、何でも出来ない人間じゃないと生きる意味はないのではないか、だらしない自分は何の価値もないのではないか、そんな思いにまだまだ縛られている。自分は駄目な人間なのだという風に否定的に考える面はまだまだいっぱいある。こんな自分は愛される価値はあるのだろうかなんて思い、自分を責めてしまうことも多い。
しかし聖書は、時は満ちたというのだ。そんな私たちを縛るいろいろなものから私たちは自由にされているというのだ。私たちを縛り付ける鎖はもうはずされているというのだ。それでも私たちはまだ鎖につながれているように思うのは、そんな鎖を自分で握りしめているような状態なのかもしれない。
そんなことではだめだ、私は駄目な人間だ、愛されない人間だ、そんな思いでいるとしたら、それは自分からそんな鎖を一所懸命に握りしめているということなのではないか。
聖書は告げる、あなたは自由にされている、鎖ははずされている、赦されている、神の子とされている。そんな声をしっかりと聞いていこう。
私たちを解放するために、自由にするためにイエス・キリストは生まれた。だから私たちはクリスマスを祝い喜ぶのだ。